まことに あなたのみことばは私を生かします。」
(詩篇119:50)
・毎日、聖書を読む時に、お役立てください。
一日一章 今日の聖書 詩篇第42篇
ここから詩篇の第二巻に入ります。表題のマスキールの意味は、「注意深い、賢い」です。それがこの詩篇に付けられている意味は明らかではありませんが、この詩篇が教訓的詩篇を指すとか、瞑想を意味すると考えられています。そのように、この詩篇を読む者は神への瞑想に導かれ、励まされるのです。
詩篇42篇は43篇とは、密に編み合わされた一つの詩篇の二つの部分であり、詩篇全体の中で非常に悲しくも美しい一篇となっていることから、多くの人に愛唱されています。「なぜ、私は…嘆いて歩き回るのですか」と言う声が両方の詩篇に聞かれます(42:9,43:2)。そして、42篇の二つの部分を締めくくっている5節と11節の繰り返し句が、43篇5節で三度目に全体を締めくくるのです。
カルヴァンがいうように聖所での礼拝の機会を奪われたダビデが主を渇望していると理解するにしても、あるいは列王記第二14:14のような状況におかれている捕囚として引き行かれた者の嘆きの歌であるにしても、神の家に帰りたいとの切望、神を求める切なる願いが、神御自身への不屈の信仰と希望へとつながっているのです。
それゆえに、これを読む私たちもこの詩篇に励まされ「私はなおも神をほめたたえる。私の救い 私の神を」(5,11)と神を告白するのです。
神を慕う者にとって、公の礼拝で本当に大切なものはもちろん神御自身です(1)。しかし、信仰の仲間と共に礼拝にあずかることや、主にある交わりの中にあることは、もう一つの喜びです(4)
(参照:詩篇48,68,84篇及び「都上りの歌」120-134篇)。その喜びの日の思い出が、作者の悲しみを一層深くするのです。しかし、神を愛し、礼拝の喜びを知る者は、神を待ち望み、なおも神をほめたたえるのです。-山本怜-
一日一章 今日の聖書 詩篇第43篇
前42篇6節からの光景には圧倒されるものがあります。足場は奪われ、次から次へと波が押し寄せ、今にも沈められんばかりなのです。それでも詩人の信仰はひるむことがありません。詩人は「あなた(神)を思い起こす」(42:6)のです。神は身近におられるのです。深淵の水は、「あなたの」注ぐ激流、「あなたの」波であると見られています。
このように42篇でうたわれていた、苦難の嵐の中でも、なお神信頼の信仰へと成長する経過が、詩篇43篇でも続いています。
43篇では、「…欺きと不正の人から 私を助け出してください。あなたは私の力の神であられるからです。なぜ あなたは私を退けられたのですか」(1,2)のことばから、神信頼と、神から捨てられる実感との不思議な結びつきに、ゲッセマネの主イエス・キリストの姿を思い、また自らの信仰の歩みを見つめます。
5節の「わがたましいよ なぜ おまえはうなだれているのか。なぜ
私のうちで思い乱れているのか。」というみことばには、ゲッセマネ
での主イエスのことばが重なるように聞こえてくるではないですか。
主は、ペテロとゼベダイの子の二人に、「わたしは悲しみのあまり死ぬほどです。ここにいて、わたしと一緒に目を覚ましていなさい」(マタイ26:38)と言われました。別の場面でも、「今、わたしの心は騒いでいる。何と言おうか。『父よ、この時からわたしをお救いください』と言おうか。いや、このためにこそ、わたしはこの時に至ったのだ」(ヨハネ12:27)と言われています。このキリストのお苦しみと十字架の死のゆえに、私たちは助け出され(1)たのです。そして死に打ち勝たれたイエス・キリストのみもと(4)に、どのような時にも行くことができるのです。神を待ち望み、なおも神をほめたたえましょう(5)。-山本怜-
一日一章 今日の聖書 詩篇第44篇
この詩の基調は神への信頼です。イスラエルは強い神の御手をもってもろもろの敵を征服し、約束の地に導かれました。詩人はうたいます。「先祖たちが語ってくれました。…自分の剣によって 彼らは地を得たのではなく 自分の腕が 彼らを救ったのでもありません。ただあなたの右の手 あなたの御腕 あなたの御顔の光が そうしたのです。あなたが彼らを愛されたからです」(1,3)。ここでうたわれているのは、国を得るという大事業を成し遂げたのは自分の実力や努力ではなく、ただ神の御手によるのだとの神信頼の告白なのです。
このような積極的な神信頼の言葉が、9節以下では一変します。「それなのに あなたは 私たちを退け 卑しめられました」(9)に始まり、「私の前には絶えず辱めがあり 恥が私の顔をおおってしまいました」(15)と綴るのです。あれほど明るく神信頼を告白したのに、現実を見た途端に、絶望の極みになっているのです。
けれども、その現実の絶望状態の中にあって「しかし 私たちはあなたを忘れず あなたの契約を無にしませんでした。私たちの心はたじろがず 私たちの歩みはあなたの道からそれませんでした」(17,18)と神への信頼をうたいます。学ぶべきはこの信仰です。どのような現実の中にあっても、神への信頼を取り戻す信仰は、現実の絶望状態を見事に跳ね返します。それにもかかわらず、状況は非常に暗いのです(19~22)。神は眠っておられるように見えるのです(23,24)。眠っておられる主は見かけに過ぎません(参考マルコ4:38)。この背後にある現実は、「あなたの御恵み」(26)です。「御恵み」は「不変の愛」と訳されることばです(ESV)。パウロは22節のことばを引用して神の愛を語ります(ローマ8:36~39)。キリストの愛こそが信仰の支えであり基です。-山本怜-
一日一章 今日の聖書 詩篇第45篇
この詩は王のための祝婚歌です。表題の「ゆりの花」は曲の名称と解釈されています。言及されている王はダビデ系の王でしょう(参考:サムエル第二7:12-13)。「愛の歌」の表題からは、雅歌と同様、結婚賛歌です。
婚礼は二人の中心人物にとっての重要な出来事であり、それは目的でもあり始まりでもあります(参照:10,11及び16,17)。それとともに、二人にとってだけではなく、王国にとっても極めて重要です。王国の将来は彼らの子らにかかっているからです。
このことに加えて、この詩で覚えておきたいことは、6,7節です。
「神よ あなたの王座は世々限りなく あなたの王国の杖は公平の杖。あなたは義を愛し 悪を憎む。それゆえ 神よ あなたの神は 喜びの油を あなたに注がれた。あなたに並ぶだれにもまして。」
ここにおいて、王に対する賛辞が、突然神の名誉に発展しているのです。このところを、ヘブル1:8,9では、キリストに適用されているので、代々、教会はこれをキリストについて語っているメシア的詩篇と受け止めてきました。そのように、2~5節での王についての描写からは、王なるキリストの姿を教えられます。― 2aから<万人より優れた王>、2bから<その口から出てくる恵みのことば/ルカ4:22>、3,4節から<真理と柔和と義をもって、勝利のうちに進まれる方>。
16,17節の「あなた」は娘・花嫁ではなく、王に向けて語られていることばです。このところから、私たちは、神が「多くの子たちを栄光に導く」(ヘブル2:10)
前触れとしてのメシア的預言を理解し、過去にではなく、永遠に続く神賛美へと招かれるのです。「私はあなたの名を 代々にわたって呼び求めよう。それゆえ 国々の民は 世々かぎりなくあなたをほめたたえよう」(17)。私も神をほめたたえます。-山本怜-
一日一章 今日の聖書 詩篇第46篇
讃美歌512番に「きみは谷のゆり、あしたの星」という言葉がありますが、本当に涙の谷、死の谷の陰を通らなければならないことが人生にはあるのです。しかし、そこでゆりの花、キリストを見い出した人には、涙の谷はゆりの花の咲く谷となるのです。
私たちのまことの安全は神にあります。神+何かではないのです。この確信とそれを脅かすものの両方が、詩の冒頭から明確にうたわれています(1~4)。
神の大能が満ち満ちている「揺るがない都」(5)こそ、私たちの砦であることを、読む者の心に深く刻みます。そして、地上に大変動が生じるとき、この詩篇は恐れずにそれをも私たちに直視させるのです。
「神の都」(4)は、旧約聖書の大きなテーマの一つです。その都が強固であり重要であるのは、神がその中におられるからです(5)。
8~11節は、最終的に起こることの幻です。現在の勝利は最終的に起こることの事前の味見と言えるでしょう。結末は平和であっても、その過程には裁きがあります。その裁きの向こうには静けさが伴っているのです。参考:ペテロ二3:12,13。
10節「やめよ」(新共同訳「力を捨てよ」、岩波訳「やめよ」、フランシスコ会、ESV訳は「静まれ」)は、落ち着きなく騒ぐ世界に対する叱責です。立ち騒ぐ水(3)に向けての命令は、マルコ4:39のキリストの権威ある言葉に通じます。さらに、終末への展望が、人の望みとの観点からではなく、神の栄光の観点から語られます。「わたしは…あがめられる」(10)という神の御意志は高慢な者には憤りの種、謙遜な者には「御名が聖なるものとされますように」(マタイ6:9)と祈るように、神への確信であり、神との全き平和への望みです。-山本怜-
一日一章 今日の聖書 詩篇第48篇
この詩に歌われている「神の都」(2)は、エルサレムという一つの国の都にとどまるものではありません。「高嶺の麗しさは 全地の喜び」とうたわれているように全地に及ぶのです。王たちは集って(連合して)、やって来ましても怖じ惑い、震えるのです*。そこには大いなる方(1)、死を越えて私たちを導かれる神(14)がおられるからです。
* 4∼8節に描かれている「王たちの敗走」の情景は、エルサレムを包 囲攻撃したアッシリア軍が主に打たれてあわてて退却したという列王 記二19:32∼37、イザヤ書37:33∼38の出来事の時の賛美と思われま す。そのように見ますと、1~8節には大いなる王の宮としての栄光が 歌われています。その大いなる王に、狂暴をもって聞こえたアッシリ アの王たちも全く歯が立たなかったのです。そのようにこの詩は歌っ ています。大いなる王がおられるからです。先祖たちから聞いたとお りだ、とうたうのです(8)。
主イエスは、ここは「偉大な王の都」と言われました(マタイ5:35)。そのおことばのように、ここにうたわれている都に、私たちには天にある都エルサレムが見えてくるのです。この詩篇が「シオン賛歌」であるのは、まさに大いなる王・神ご自身がこの都をとこしえに堅く立てられる(8)からです。
9∼11では、詩人は大いなる方の宮の中で、主なる神の前に静まって、主の恵みを思い、地の果てにまで及ぶ主の誉れに、御名をほめたたえます。そのとき、その素晴らしいご支配(さばき)によって、「シオンの山が喜び ユダの娘たちが楽しみますように」と都の住民たちの幸いを祈るのです。私たちも、詩人のように、主の恵みを思い、主の誉れの瞑想に導かれ、教会の兄弟姉妹たちの幸いを祈るのです。-山本怜
一日一章 今日の聖書 詩篇第49篇
詩人は広く全人類に呼びかけて英知を告げます(1~4)。神の啓示です。
詩人は、わざわいの日々に、おのれの財産に拠り頼み富を誇る人々に取り囲まれているのです(5,6)。こうしたとき人は恐れの感情に襲われたり、自分の乏しさを痛切に感じたりするのではないでしょうか。
しかし、彼は「恐れなければならないのか」と言って、現実に身を任せ放置することによってではなく、7節以下で語るように、格言に耳を傾けることによって克服するのです。聖書の格言に耳を傾けるとは、どういうことなのでしょう。それは、物事を永遠の光の内におき、まことの価値を知る者とされることです。
7~11節で、彼は、人間の富と力の価値から、まことの価値へと目を向けます。「兄弟さえも 人は贖い出すことができない。 自分の身代金を神に払うことはできない。 たましいの贖いの代値は高く 永久にあきらめなくてはならない。 人はいつまでも生きられるだろうか。 墓を見ないでいられるだろうか」(7~9)。こうして彼は、人間が超えることのできない罪の解決の問題、死の問題、人生の意味、神との出会いの問題を取り上げます。12節までの強調点は傲慢な者たちの死に行く定めに置かれています。13節からは、現世的な人と神の人との区別です。それは滅びと救いの対比です。
神は、身代金を要求せず(7)、ご自身で払ってくださいます(15)。15節の表現は、旧約聖書における希望の最高峰の一つと言われています。まさしくキリストを指し示しているのです。12節と20節の繰り返し句の間に、大いなる約束(14b,15)が入っていますが、自分の力に頼る者の終わりは永久に光のない陰鬱で結ばれています。これらの英知のことばを私たちも悟り、いのちへと導かれてまいりましょう。-山本怜-
一日一章 今日の聖書 詩篇第50篇
力強い神顕現のことばで始まります(1)。50篇で問われているのは
契約の民の「まことの愛」と「神を知ること」と言えます。民をさば
くために火と嵐を伴って(3)神が自らを現して問うのです。天と地と
が証人となります(1,4)。神の民にとってのさばきは、民が命を得るた
めです。そのさばきは、神の家から始まります(4b、参照ペテロ一4:17)。
神は、「敬虔な者」「わたしと契約を結んだ者」、とあるように、主の民の特別な召しを軽んじられません。だからこそ、主の民は厳しく責任が問われるのです(参考:アモス3:2、ルカ12:48)。
神は、「わが民」(7)と「悪しき者」(16)の二集団に語りかけます。
7~15節では、「わが民」つまり神に向かって生きようとする人々へ
の率直な言葉が記されています。このところでさばきが描かれている
のは、判決を下すためではなく、真理を明るみに出して罪人を悔い改
めさせるためです。ささげ物などに関心があっても、神との関係はど
うなっているのか、神への祈りと誓いが忘れられていたのではないか、
などを取り上げながら、この方が求めておられるのは、14節にうたわ
れているように感謝と信頼という温かい応答なのです。神は見せびら
かしではなく、愛を求めておられるのです。
16~21節では、「悪しき者」つまり名ばかりの頑なな民(名ばかりの
キリスト者)が取り上げられています。彼らの生活ぶりが、十戒の後半を試金石として描かれています。その実際は、みことばを軽んじ(17)、罪を楽しむかのような偽善に浸っているのです(18∼20)。22,23節では、
上記の二つの集団が逆の順序で語りかけられます。神を忘れる者は、神の裁きに抵抗することはできません。 神は、感謝ささげる人、道を正す人へと私たちを招いておられるのです。(参考ヘブル13:15,16)-山本怜-
一日一章 今日の聖書 詩篇第51篇
表題にありますように、この詩はダビデがバテ・シェバと通じた後、罪責に耐えられず、神の前にひれ伏す「悔い改めの詩篇」です(必読:サムエル二11、12章)。
「打たれ、砕かれた心」(17)とありますように、この詩は徹底的に砕かれた魂の告白です。単なる懺悔でも悔いるだけでもなく、砕かれた魂が悔い改めているのです。この悔い改めは、神から来るもので人を造りかえ、「きよい心を造り」(10)「救いの喜び」(12)をもたらすのです(参照 コリント二7:14)。
ダビデの罪は将軍ウリヤを殺した罪につきないで、神に対する反逆でした。このことのあまりの重大さに彼はただ神の御前にひれ伏し、罪を告白して悔い改めるのです(3~9)。
ダビデの罪とは人に対する罪であることは当然のことですが、それが神に対するものであるという視点は、その人の根本にメスを入れるもので、新たな自己認識をもたらすのです。ダビデは、自分が生まれながらにして自分の内にある原罪をも見つめて(5)罪を告白しているのです(参考:ハイデルベルク信仰問答問7)。51篇がもっとも徹底した罪の告白であるゆえんは、5節があるからといえるでしょう。
罪責に打たれて悔い改めたダビデは、「主よ 私の唇を開いてください」(15)と祈ります。この祈りは単なる決まり文句ではなく、良心に恥じて口をつぐんでいた者の叫びです。彼は再び神を喜び、礼拝したいと熱望しているのです。そして、神の恵みによってそうなると信じているのです。ダビデだけではありません。私たちも、真心からの悔い改めが、私たちを新たに造りかえ、へりくだった嘆願が、賛美(14b
)と真の礼拝(19、参照:ローマ12:1)の喜びに導くのです。-山本怜-
一日一章 今日の聖書 詩篇第52篇
表題が記すように、この詩篇はサムエル記一21,22章に記されているできごとで、ダビデのもっとも苦い経験の一つと結びついています。ダビデがサウル王から逃げていたとき、彼は祭司アヒメレクを説得して食物を少しもらいました(サムエル一21章)。そのアヒメレクは王に訴えられ、祭司らと村の全住民は虐殺されたのです。告げ口をしたのはエドム人ドエグ、殺害を実行したのもドエグでした(サムエル一22:9-19)。
詩篇52篇は、この出来事にもとづいて、ドエグに見られる富を究極的なよりどころとする「悪しき者(1、勇士)」と、究極のよりどころを神に持つ「正しい人」の状態を示します。
「悪しき者」(1~5)― この人はあたかも勇士のように力ある者のように見えるかも知れませんが、神を畏れぬ者であり、善よりも悪を、義より偽りを愛する者です。この人は特に舌の罪を犯します。しかし、神は彼を打ち砕いて倒し、幕屋からは引き離され、その子孫は根絶やしにされるのです。
「正しい人」(6,7)― この人は神により頼まず富に頼って破滅に進む悪しき者を笑います。「正しい人」は神の祝福の下にあって、緑のオリーブの木のように栄えるのです。
9節を読みますと、「悪しき者」「正しい人」としてダビデがうたっている意味が分かってきます。サムエル記一22:22からは、ダビデがアヒメレク一族に災害が及んだことについて自分の責任を認めています。しかし、ダビデが先ず思ったことは、「悪しき者」「正しい人」でうたっているように、神の恵みがこんな悪者ドエグのわざで消滅するはずがない、という善なる神への信仰だったのです。私たちも善なる神のみわざのゆえに、神の御名を待ち望みましょう(9)。-山本怜-
一日一章 今日の聖書 詩篇第53篇
この詩は、詩篇14篇とほとんど同じです。違っていることに気づくのは、先ず神の名前です。 14篇では、1節の「愚か者は心の中で『神はいない』と言う」に「神」の文字が使われている以外はすべて神が「主」として示されています。一方、この53篇はすべてに「神」が使われているのです。この違いは何を語っているのでしょうか。
「主」と言うことばが示しているのは、イスラエルに対する契約の神です。そして、53篇の「神」ということばが示しているのは、全人類に対する創造主、支配者です。従って、14篇はイスラエルに対するメッセージを持つ詩(イスラエルを主の民とみればキリスト者も含む)、53篇は全人類に対するメッセージを持つ詩と考えることができるのです。
次いで気づくのは、14篇の5,6節が、53篇の5節と違っていることです。この個所も14篇ではイスラエル国内の不信仰者について記していますが、53篇は広く全世界についてのことばと考えられます。
1∼3節でダビデは、天地の創造者、支配者である神を無視する人がすべて無用の者となっていることに気づかせます。ここは神がご支配しておられる場である、と自覚して生活することが大切なのです。讃美歌90に「ここも神の御国なれば、…」と歌う賛美がありますが、ここは神の国、神の御支配の場であると自覚して生活をすることが私たちの基本的なあり方なのだと教えられます。
4∼6節では、不法を行う者たち、すなわち不信仰な人々が、わたしの民(信仰者)を侮り、利用し、裏切るけれども、彼らはわたしの民が究極の勝利者であることを知らないと告げて、イスラエルの救いを祈っています。救いはシオンから来るからです。私たちも国々の救いのために祈るのです。-山本怜-
一日一章 今日の聖書 詩篇第54篇
この詩篇は、52篇での試練に続くサムエル一23に記されている経験から生まれました。「サウルは、毎日ダビデを追い続け」ていました(サム一23:14)。そのサウルのところにジフの人々が来て「ダビデはわれわれのもとに隠れている」と告げて、サウロ王を先導してジフに向かいました。ジフというのは、死海の西側の荒れ野にある村で、その住民がジフ人です。 彼らは、自分たちのところにいるダビデを裏切り、ダビデを追うサウル王に密告して彼を引き渡すと言ったのです。こうした裏切りを受ける経験をする中で、ダビデは「神よ、あなたの御名によって 私をお救いください」(1a)、と御名に訴え、「あなたの力強いみわざによって 私を弁護してください」(1b)と切に祈るのです。ダビデを裏切った者たちは、ことの成り行きを見て都合の良い方につこうとする日和見主義者と言えます。これに対し、ダビデの方は、「あなたの力強いみわざによって」一貫して神を仰ぎ正義を求めているのです。
5節.敵対する者にどのように報いるのか、ということについては、この問題を「あなたの真実によって」と言って神に委ねていることに注目しましょう。このことはローマ12:19の「神の怒りに任せなさい」とよく一致しています。
6節の“心からのささげ物をもって”について教えられるのは、神に助けを願う祈りに何の誓約も含まれていないことです。つまり、「これをしてくだされば、これこれをささげます」と言ったことはなく、感謝といけにえを喜んで行ったのです。ダビデは、苦悩の祈り(1~3)に答えられる(4,5)神に深く感謝している(6,7)のです。この詩篇のように、私たちも、苦悩の中でも神への信頼に堅く立ち、神に祈るとき、神から来る真の自由へと、感謝をもって歩む者とされるのです。-山本怜-
一日一章 今日の聖書 詩篇第55篇
「死の恐怖が 私を襲っています」(4)の叫びに見られますように、この詩篇は、通常の経験のための書であるだけではなく、極端な経験のための書でもあるのです。錯乱しそうな状態に追いやられたとき、ここに苦しむ仲間を見つけます。ある人は、自分も「虐げられているつもり」(ヘブル13:3)で、この詩に祈りの手引きを見いだして祈ることができるのです。さらに、12∼14、20,21節からは、キリストの苦難への瞑想へと導かれます。そして、同じような状況の中で、自制して贖いの態度を貫かれたキリストへの思いへと導かれるのです。
「耳を閉ざさないでください」(1)との祈りの声は切実です。この表現が、申命記22:1∼4に「見ぬふりをする(あなた自身を隠す、の意)」と訳されていることばと同じだと考えると、ダビデがどれほど神の変わらぬあわれみに訴えているかを知らされます。
ダビデは、「恐れと震えが起こり、戦慄に包まれた」(5)のでしょう。「私に鳩のように翼があったなら」(6)とうたいます。
ダビデの敵となり、高ぶっている者とは誰なのか(12~14)。息子アブサロムなのか、ダビデの顧問であるアヒトフェルなのか、敵となった者・裏切り者を特定しようとしても益はありません。重要なのは、13節の内容です。「それは おまえ。私の同輩(原語の意味は「わたしにかなう者」) 私の友 私の親友のおまえなのだ」(13)。ところで、この箇所でダビデが図らずも描いたものは、彼自身が最も信頼できる「わたしにかなう者」である友人ウリヤへの裏切りの本質でもあるのです。そのゆえに、ダビデの心には背きの罪が深く刻まれているのです(参照:詩篇51篇)。その重荷をダビデは主に委ねました
(22)。私たちも一切の重荷を主に委ねるのです(参照:ハイデルベルク信仰問答 問28)。-山本怜-
一日一章 今日の聖書 詩篇第56篇
この詩の背景は、34篇にうたわれている史実と同じでサムエル一
21に記されています。ダビデは、どの隠れ家からも安全と憩いを得
られないと知って、こともあろうにペリシテの代表的な町ガトのアキシュのもとに逃れざるを得なくなりました。しかしこの逃亡はうまくいきせん。ダビデに従う者もこの時、四百人(サムエル一22:2)はいなくてごく少数です。この詩はこうした状況の中で生まれました。
ダビデの敵たちが戦いを挑んできて、どれほどダビデの心が恐れを覚えても、なおダビデは神に信頼しています(1~3)。彼は恐れたと告白しつつ、神の恵みを待ち望むことによって、常に耐え忍んだのです。私たちもまた、いろんな恐れや動揺を覚えるとき、それは信仰に対する試練と知って神の恵みを待ち望みたい。ダビデは、恐れつつも主により頼むことを決してやめず、困惑しながらも勇気を奮い起こしたのです。その中に信仰の真実な証拠があるのです。
信仰によって打ち勝ったとはいえ、ダビデの内外は不安や恐れから自由だったわけではなく、それが苦痛となり悲しんでいたのです(5~7)。
「どうか私の涙を あなたの革袋に蓄えてください」(8)の聖句は、よく知られ親しまれている聖句です。人生においてずいぶんと涙が流れますが、悲惨なことは流す涙が誰にも受けとめられないことです。ところが私たちの流す涙を、神はしっかりと受けとめ、ご自身の革袋に蓄えておられるのです。印象的で強烈な表現です。涙のもといを知っておられる方が、私たちのことをどこまでも配慮しておられるのです
(参考:マタイ10:29,30) 。結びの12,13節は、信仰に生きる者の喜びです。多くの苦しみに囲まれたダビデは、その中でなお喜びに生き、逆境の時に誓った約束を守るとうたいます
(参考:ペテロ一4:13)。-山本怜-
一日一章 今日の聖書 詩篇第57篇
表題の「洞窟にいたときに」は、この詩の背景を述べることばです。このことばには、「私と死の間には、ほんの一歩の隔たり」(サムエル一20:3)といえる状況にありながらも、自分を追う者から身を守るだけではなく、追う者の身を配慮し、なおかつ神への信仰を謙遜に守るダビデの姿が込められています。
ダビデは、アドラムやエン・ゲディの洞窟に敵からの難を避けましたが(サムエル一22:1、24:1)、ダビデが「避けどころ」という時にはそれを越えるものを見ていたのです。神の御翼です。岩はそれ自体堅固なものですが、それだけに、容易に砦にもなれば、罠にもなります(サムエル一23:25以下)。しかし、「翼」によって象徴される生きた神の守りには、失敗することはありません。
参照:詩篇61:3,4「あなたは私の避け所 敵に対して強いやぐら。私は あなたの幕屋にいつまでも住み、御翼の陰に身を避けます」
マタイ23:37「…わたしは何度、めんどりがひなを翼の下に集め るように、お前の子らを集めようとしたことか。…」
私たちも、どのような歩みをする時にも、「神の御翼」のもとにある
ことに感謝をささげるのです。
災いの中にありながらも、ダビデは目を高く上げて「いと高き方 神
を呼び求めます」(2)。同じように、私たちも目を常に高くあげ、神が
その子らに約束してくださる天にある命に目を向けさせてくださいと
祈りを日ごとささげる歩みを大切にしたいと思います。ダビデは「神
よ、あなたが天で あなたの栄光が 全世界であがめられますように」
(5)と祈ります。ここに勝利があります。危機の中でも、「御名があ
がめられますように」という祈りに導かれましょう。-山本怜-
一日一章 今日の聖書 詩篇第58篇
1節「力ある者たちよ、おまえたちは本当に義を語り 人の子らを公正にさばくことができるのか」とありますように、この詩の中でさばかれているのは、支配者たちです。ダビデに呼びかけられた(1)不正を働く支配者たちの様子が描き出され
(3~5)、処罰されるようにとの祈りになります(6~9)。最後にうたわれるのは、人はさばきの神の前に立つことです(10,11)。
それにしても、「緑のままでも 燃えていても 等しく吹きはらわれる」(新共同訳:生きながら、怒りの炎に巻き込まれるがよい)に見られる(6~9)生々しい呪いの言葉に満ちた祈りに驚きます。ダビデは、不法がはびこっていることに憤りを覚え、不義に対する神のさばきを見ているのです(イザヤ24:21)。
このように祈りながらもその祈りのゴールは不正に満ちた心(2節)の支配者たちの悔い改めにあったことが、ダビデの信仰と人格から推し量ることが出来ます。ダビデは、彼を壁に突き刺そうとしたサウル王(サムエル一19:10)に対して、エン・ゲディの地では、サウルの悪意に善意をもって対したのです(サムエル一24:16-22)。そうしたダビデに、サウル王は「わたしが間違っていた」(サムエル一26:21)と悔いました。
こうして、ダビデは6~9節では神のさばきを祈り、10,11節で主の
さばきによって、国が正義に立ち帰る希望を言い表しているのです。
なお、3~5節からはローマ3:10∼18を思い出す人もおられること
でしょう。そして、ここに語られていることが不正な支配者たちの様
子を描いているだけではなく、自分を映し出す鏡でもあることを示さ
れるのです。
命に至る悔い改めに導かれる者は幸いです(使徒11:18)。-山本怜-
一日一章 今日の聖書 詩篇第59篇
この詩篇は、表題が示すようにサムエル一19に記されている時のものです。ダビデに対する妬みによって、サウルによる敵意と迫害が徹底的になった時です。ダビデがサウルに対してどのような態度をとるべきかの決断が迫られた時でもあります。サウルに対抗策を考えるか、サウルを主に油注がれた器と見て尊び、無抵抗でいくのかの決定が問われた時にうたった詩篇です。
1∼5節で、ダビデは主に、「向かい立つ者たちよりも高く 私を引き上げてください」(1)と求め、迫害の不法を訴え(3,4)、主を「万軍の神」、「主」、「イスラエルの神」と呼んですべての国、邪悪な裏切り者への処罰を祈っています。敵の手の届かない高みにまで引き上げてくださいとの求めに、彼のサウルに対する決断を教えられます。サウルと同じレベルに陥って戦い合う状況から自分を引き上げてください、と祈っているのです。ダビデは対抗することの誤りを知っていたのです。どうしてそれを知ったのでしょう。
ダビデは主を「万軍の神」、「主」、「イスラエルの神」と呼びました。万軍の神は大きな力を持つ神、主は契約の神、イスラエルの神はうなじを固くするイスラエルを見捨てることなく全地の祝福の器にしようとしてかかわってくださる恵みの神です。ダビデはこの十全な神を知って信頼していたのです。神を信頼せず、自分の思いのままに妬みと憎しみを持って迫る敵に対抗するよりも、ダビデは対抗することを恵みの神に委ねたのです。ダビデはこの詩篇を勝利の賛美で歌いあげます。今までは、「あなたを見続けます」(9)に見られるように、忍耐して待つダビデでしたが、この時の苦しみの経験は賛美と変わり(16)、神をほめたたえるのです(17)。-山本怜-
一日一章 今日の聖書 詩篇第60篇
表題から気づきますのは、ダビデの力の絶頂期に、隣接する敵対勢力が回復してきていることです(参照:サムエル二8:3-14)。ダビデの成功が敵たちの間の援軍(サムエル二8:5)という危機と国を遠く離れての戦いという危険をもたらしたのです。ダビデの主戦力がダビデと共にユーフラテス川の近くにあったとき(同8:3)、エドムはおそらくその機会を利用してユダを襲ったのです
(同8:13)。こうした状況の中で、いくつかの勝利を収めていたダビデは、神の恵みを思い見るように励ますために、この詩篇を祈りをもって始めます。
いかに国が荒廃し(2~4)、神に突き放されるように敗北に終わったとしても(10)、それを支配されるのは神であるとの確信をもってその神に祈り、助けを求め、信頼すること(11,12)をダビデは告げるのです。
1節の「拒み」は厳しいことばですが、5節の「あなたの愛する者たち」と合わせて読みましょう。神の怒りは恐ろしいですが、最終的な拒否ではありません。このことの理解は重要です。
神の「拒み」には容赦はありません。それが「地が揺れ動いている」(2)に語られています。しかし、民はどれほど苦しい目にあわせられても(3)、「あなたの愛する者たち…」(5)とうたうダビデの祈りに力を受けるのです。この祈りはまさに信仰の祈りです。これに神が応答されます(6~8)。6,7節はイスラエルが相続した地について、8節はイスラエルの隣国についての宣言です。わずかなことばから、イスラエル初期の歴史と代表的な領域が思い起されます。注目したいのは「わたしのもの」「わたしの」という表現です。すべては神のものであって、彼らのものではないのです。人間の側には信仰による勇敢な行動が必要ですが、そこには、神の御手が置かれているのです(12)。-山本怜
一日一章 今日の聖書 詩篇第61篇
この詩篇は、セラをはさんで二分されます。(セラとは音楽に関する術語で、この箇所で歌声か奏楽の調子を上げたと考えられています。)
セラまでは安全を求める祈り、そのあとは、神の答えの確かさへの感謝となり、恵みが続くようにとの高揚する願いです。この詩の背景にあるのは、サムエル記二17章と思われています。ダビデはその子アブサロムの狂怒を避けるため、急いで都エルサレムから逃げ出し、マハナイムあたりの密かな場所に身を隠しました。その結果、聖所と聖都に至ることが、できなくなったのです。この時の彼の心境が「私の心が衰え果てるとき 私は地の果てからあなた呼び求めます」(2)の声となって、試練のただ中からダビデは祈ります(1∼4)。ダビデの願いは、神の幕屋に宿り、神の翼の陰に身を置くことであったのです(4)。1∼4節を読み、これほどまでに神の御臨在される家を慕い求める彼の信仰に「神の家(教会)での礼拝に生きる恵みと大切さ」を学びます。
このダビデの願いが確実にかなえられ、現実となって現れます。「神よ まことにあなたは 私の誓いを聞き入れ 御名を恐れる者の受け継ぐ地を 私に下さいました」(5)。ここにあるのは、どこまでも神を信頼する者の祈りです。
7,8節に見られる祈りは、ナタンの予言によって約束されたことを思い起させますが(サムエル二7:16)、内容そのものは、来るべきメシアの人格においてあふれるほど成就されるべきものなのです。この方「来るべきメシア(キリスト)」を通して主の民は、まことの王の祝福に与るのです。「こうして 私はあなたの御名を とこしえまでもほめ歌い 日ごとに 私の誓いを果します」(8)は、ダビデのことばであるとともに、キリストにある私たちのことばであるのです。-山本怜-
一日一章 今日の聖書 詩篇第62篇
62篇は、ダビデの苦難(3,4)の中で作られた神への信頼の詩です。ダビデは、「私のたましいは黙って ただ神を待ち望む。私の救いは神から来る」(1)という神への信頼を、再びしっかりと心に置いて(5)、主の民にもそのように「どんな時にも神に信頼せよ。あなたがたの心を 神の御前に注ぎ出せ。神はわれらの避け所である」(8)と言って強く勧めました。このことは、時代を問わず、今の時代においてもキリストにある私たちを生かす勧めであることをしっかり心に留めましょう。
1節と8節は、ダビデは平素からも(1,2)、そして自分を襲い、打ち殺そうとしている者の中にあるときも(3,4)、ダビデの信仰は神への信頼に貫かれていたことをよく表しています。すべてのことは神にのみかかっているのです。ダビデは、自分を襲い、打ち殺そうとしている者にも、いつもと同じように、自分で答えようとはせずに、ただ沈黙して神にのみ目を向けたのです。
神への確信を表す表現が、繰り返されていますが(1,2と5,6)、いくつかの点で微妙な違いがあるのに気づきます。
・1節では「黙って、ただ神を待ち望む」でしたが、5節では「黙って、ただ神を待ち望め」と自分自身に促しています。試練の中では(3,4)、神への信頼に心をしっかりと結びつけるのです。
・「私の救いは神から来る」(1b)が「私の望みは神から来る」(5b)に替えられていますが、この2語は切り離せられない信仰のことばです(参考:ペテロ一1:21)
。
・極めて積極的な変更があります。「私は決して揺るがされない」(2b)が「私は揺るがされることがない」(6b) と、無条件の表現になっていることです。どんな時にも神に信頼しましょう(8)。-山本怜-
一日一章 今日の聖書 詩篇第63篇
表題の“ユダの荒野にいたときに”は、「王」(11)に言及されていることから、アブサロムがヨルダンに向かう途上のダビデをユダの荒野へ向かわせたときを指し示していると考えられています(サムエル二15:23)。この詩は,ダビデが遭遇した最悪の状況と、ダビデの献身の思いとが結びついているのです。
1節の「神よ、あなたは私の神」という率直で大胆な告白が、私たちの心に強く響いてきます。この告白に見られる神と私の関係が、すべてのことの秘訣です。族長アブラハムの時代から、私たちの現在まで、この告白こそが、神との契約の核心だからです。(参照:創世記17:7、17:8b、ヘブル8:10 )
この「あなたは私の神」(1)が、現実となって「たましい」(1)と「身」(1)、つまりダビデの存在全体に、深い愛の関係となって溢れ出ているのです。神なしでは、ダビデの全存在は安定せず、満たされることもありません
(参照:ヨハネ4:13,14) 。ダビデのたましいは、神を渇き求めます。それと同じ激しい願いをもって、ダビデはエルサレムの聖所で礼拝をささげていました。それは、「こうして聖所で あなたを仰ぎ見ている」(2)荒野にいるときも、同じなのです。このところで、ご自身を現してくださる神の力と栄光を見て、神を賛美するのです(2,3)。
「あなたの恵みは命にもまさる」(3)というダビデには、神への愛こそが生きがいなのです(参考:使徒20:24)。
このダビデの信仰と堅忍が豊かに報われ、「あなたに渇き」「あえぎ求めた」(1)たましいは、今や「満ち足り」(5)、「賛美し、喜び歌う」(5,7)のです。この詩篇を読む私たちに、ダビデの神へのひたむきな愛が強烈に伝わってきて、神への愛に生きる思いを新たにします。-山本怜-
一日一章 今日の聖書 詩篇第64篇
詩の前半(1∼6)では、ダビデに敵対する側の狡猾さや裏切りがはっきりと語られます。彼らはなぜ何か劣った軍隊であるかのように「隠れた所から」(4)攻撃を加えるのか。考えられることは、彼らは悪事に凝っており(5)、不正を企み(6)、その目的が恥ずべきもの、戦略が弁解の余地ないものであるからではないでしょうか。
ローマ人への手紙3:9~20には、罪の実態がはっきりと記されています。その13節には「彼らの喉は開いた墓。彼らはその舌で欺く」「彼らの唇の下にはまむしの毒がある」と記されています。その罪が、この64篇では、実にリアルに描き出されているのです。彼らは「企んだ策略がうまくいった」と言って喜んでいる様子が記されていますが、まことに「人の内なる思いと心とは 底が知れません」(6)。
このところを読み、人の心をご存知の主イエスの御前に生きる思いを新たにします。(参照:ヨハネ2:25b イエスは、人のうちに何があるかを知っておられたのである。)
後半では、ダビデは自分の願い(1)が決して空しくなく、神による彼らへの裁きのみわざを確信して(7)、主にあって喜びます(10)。
「彼らは自らの舌につまずきました」とダビはうたいます(8)。神は、悪を行う者らが正しさと直さの内を歩む者に加えようとする危害を、すべて彼ら自身の頭上に降りかかせられるのです。神を信頼するとは、神のみこころを知り、みこころに生き、ローマ人への手紙12:19のみことば「愛する者たち、自分で復讐してはいけません。神の怒りにゆだねなさい。こう書かれているからです。『復讐はわたしのもの。わたしが復讐する。』主はそう言われます」をしっかり心にとめて、すべてを主に委ねることにあるのだと教えられます。-山本怜-
一日一章 今日の聖書 詩篇第65篇
惜しみなく与えてくださる神に向かって、ダビデは溢れ出る賛美を
生き生きとうたいます。ここには、使徒ヨハネが伝える、“御父また御子イエス・キリストとの交わりにあずかる喜び”(ヨハネ一章)が満ちています。しかし、この明るい神賛美の前提には大変厳しいものがあるのです(2,3)。神賛美にあふれるためには、罪の自覚が問われ、罪を悔いて悔い砕かれる者を、神は霊によって支え、救いの喜びで満たしてくださるのです。(参照:詩篇51篇)
このことを3節でダビデは教えます。「数々の咎が私を圧倒しています。しかし私たちの背きを あなたは赦してくださいます」。(参照:ローマ5:20b
罪の増し加わるところに、恵みも満ちあふれました)
私たちは、自分でどうすることもできないほどの大きな背きに気
づくとき、主イエスが「彼らは返すことができなかった」と語られた
二人と同じ結果(ルカ7:42「金貸しは二人とも借金を帳消しにしてやった。)になるのです。「数々の咎が私を圧倒する」(3)ときほど、罪の苦悩は強く、私たちは負かされるばかりになるのですが、その罪を神は赦されるのです。その罪の赦しが、人を神の大庭に連れてきます(4)。こうして神の赦しに支えられて、罪の悩みから解き放たれた者は、明るい神への賛美に満たされるのです(5節以下で)。
5~8節では、自然界の主、地に住む人々の主である神とそのみわざ
がほめたたえられます。
9節からは、肥沃な大地の描写が、神の豊かさへと、私たちの信仰
の目を確かなものにしてくれます。9~13節にうたわれている神の豊
かさの中で私たちも導かれているのです。私たちは、どのような時に
も神の豊かさを思い、喜びの叫びを心から上げていくのです。-山本怜-
一日一章 今日の聖書 詩篇第66篇
66篇は、「全地よ、神に向かって喜び叫べ」に始まる感謝の詩篇です。詩人は、「さあ 神のみわざを見よ」(5)、「私は全焼のささげ物を携えて…」(13)と、自らの神への感謝をうたい、信仰者には「さあ聞け…神が私のたましいになさったことを語ろう」といって、自分の証しを
聞くように呼びかけます。神の配慮は、世界や国全体に及ぶだけではなく、神を恐れる一人ひとり(16)にも及ぶのです。
神への感謝の裏付けは、「あなたのみわざは なんと恐ろしいことでしょう。偉大な御力のために あなたの敵はへつらい服します」(3)という救いについての厳しい現実です。この厳しい現実をごまかさないのが、聖書の特徴です。その現実には裁きの要素が含まれているのです(参照:ヨハネ3:17~19)。
神への望みは、神のなされたみわざにあるのです。葦の海を渡り、
ヨルダンを渡ったことは(6)、神の民を救い、逆らう者をさばく神の力
と意志を決定的に証明するものでした。したがって、出エジプトは、
旧約、新約の聖書を通して決して死文ではありません。過去の出来事
でありつつ、それは「とこしえに」(7)波及するものであり、神のすべ
ての救い(個人の救いも含む)のみわざの中で再現されるのです。
9~12節には「あなたは」が繰り返されています。このことから分
かりますように、すべての出来事の中に神の御手があるのです。この
ことを知りますと、苦難は解放と同じくらい意味あるものとなり、苦
難は「私たちを試し、銀を精錬するように」、私たちを練られる神の恵みであることを悟るのです。私たち信仰者は、神の御手によって練られて、日々に新たにされていくのです。私たちも神を呼び求め、この神を崇めましょう(17)。「ほむべきかな 神」(20)。-山本怜-
一日一章 今日の聖書 詩篇第67篇
この詩篇を読む私たちは、神の祝福が 詩人が立っているところに始まり、そのところを超えて全地にあふれる出る豊かさにふれます。アブラハムが祝福されると同時に、地を祝福する者となるのと同じように、神からの祝福はすべての人に及ぶのです(創世12:2,3)。
1節「どうか、神が私たちをあわれみ、祝福し 御顔を私たちの上
に 照り輝かせてくださいますように」。ここには、「アロンの祝福」
が響いています(民数6:24,25)。
この祝福から溢れ出るものは何でしょう。それは、「あなたの道が地
の上で 御救いが すべての国々の間で知られるために」(2)です。
神が御自身を知らしめることであり、それゆえに命を与える知識が広
まるのです。それは、聖書が語っている、真理と救いを授けるという
二重の希望です。(参考:テモテ 二 3:15,16、使徒17:27)
御顔の輝きに照らされ、祝福の中を歩むとき、3,5節に繰り返され
ている祈りに見られますように、すべての民が 神に感謝をささげる
ようにという 大きなヴィジョンと大胆な祈りが伴ってきます。
6,7節では、最初の行だけが「大地はその実りを生み出しました」
と過去のことが語られています。そのあとは、期待であり祈りです。
それも繰り返しの祈りです。このように、私たちも大胆に祈ることが
できるのです。なぜなら、神は「私たちの神」(6)だからです。しかし、私たちの神であるということは、私たちが神を独占しているという意味ではありません。神の民すべてが神の前に頭を垂れるときも、神は、私たち自身の神なのです。「大地はその実りを生み出しました」(6)と詩人はうたいます。地の産物が実るように、神のことばは実を結びます(ヨハネ15:5)。-山本怜
一日一章 今日の聖書 詩篇第68篇
非常に生き生きとして喜びにあふれるこの詩からは、ダビデが「喜びをもって神の箱をオベデ・エドムの家からダビデの町へ運び上げた」(サムエル二6:12)時の風景に思いが走ります。「神は立ち上がり その敵は散り失せる。神を憎む者たちは御前から逃げ去る。」この冒頭のことばには、契約の箱が出発するときのことば(民数10:35)の響きがあります。そして、神が住まわれるために上られて、「いと高き所」でこの詩篇は頂点に達しているのです。
喜びにあふれる賛美のファンファーレ(1∼6)と「力と勢いを御民にお与えになる方」である神をたたえる終わりのファンファーレ(32~35)に囲まれて、救いについての歴史と預言とが二つの部分で語られています。まず、エジプトから始まってエルサレムで最高潮に達する神の勝利の行進の祝い(7∼18)、次いで、力と威厳をもってなされる統治への祝いです(19∼31)。
7~18節 神の勝利の行進の祝い ― 王の行進の中心にあるのは神の箱です。その神の箱はシナイ山で造られ、そこから神の名においてイスラエルを約束の地に導いたのです。神による神の民の行軍です。そして、ついにシオンの山の頂にまで導いたのです。まさに神の約束の成就の瞬間でした。
19 ~31節 王の国 ― いと高き所へ上り」(18)で、この詩は頂点に達し、今度はその結果が三つの連(19~23、24~27、28~31)で明らかにされていきます。19~23の連では「日々 私たちの重荷を担われる方」の贖いによる「勝利の相続者」に、24~27の連では、様々な集団が付き従っている「まことのイスラエルの行進」に、28~31の連では、異邦人が加わる「諸国民からの敬意」に、心が引かれます。-山本怜-
一日一章 今日の聖書 詩篇第69篇
この詩は22篇と同じように受難の詩篇です。9節や21節などが福音書で引用されていますように、ダビデの苦難を通してキリストの受難の場面に私たちは導かれます。この詩篇で、イエス・キリストの十字架の贖いのわざへと心を向けましょう。
詩篇は、いきなり、「神よ 私をお救いください。水が喉にまで入ってきました」(1)と、今まさに溺死するばかりの叫びで始まります。足がかりを求めようとしても、深い泥沼へと沈んでいくばかりです。まさに受難の様相です。主イエスは、このようにして人々の嘲りを受け、父なる神からは引き離され、犠牲となられました(4、19~21)。参考:ヨハネ⒖:25「これは、『彼らはゆえもなくわたしを憎んだ』と、彼らの律法に書かれていることばが成就するためです。」
主イエスは、見捨てられたと思ったとき、神を父として呼んでいませんでした(マルコ⒖:34)。受難の一切は、ただ御父に栄光を帰する熱心と人々を救う愛のためであったのです(9、13~17)。参考:ローマ15:3「キリストもご自分を喜ばせることはなさいませんでした。むしろ、『あなたを嘲る者たちの嘲りが、わたしに降りかかった』(詩編69:9)と書いてあるとおりです」。
ダビデは、過酷な苦難がどれほど人に影響するかを強く訴えています(11,12,20,29)。その苦痛の中で、ダビデは怒りの感情に激しく打たれるのです(24-28)。このことをキリストに当てはめて考えるとき、私たちは「子羊の御怒り」(黙示録6:16、参照.ヨハネ2:17)の神秘をわずかでも実感的に知るのです。ダビデは苦難から救われると、歌をもって神の御名をほめたたえ、感謝をもって神をあがめます(30,31)。私たちも主をほめたたえ、感謝をもって神をあがめましょう(34)。-山本怜-
一日一章 今日の聖書 詩篇第70篇
この詩は、40篇13~17節とほぼ同じです。カルヴァンは、このところについては「ただ本文をくりかえすことにしよう。その解釈は別のところに求められるべきである」とだけ記しているに過ぎません。私たちも、詩篇40篇の「今日の聖書」を見るとして、ここでは、特徴的なことを取り上げてみましょう。
〇 詩篇40:13以下に比べて随分短いことです。このことから強く伝わってくるのは「急いで…来てください」に見られる切迫感です。救い出されること、助けが確かに来ることは、神を信頼する信仰のゆえに確信していますが、それを「急いで…来てください」と祈ります。
この「急いでください」は、5節にも繰り返されます。
参考: 岩波訳2節(2017訳の1節)「神よ、私を救い出しに、ヤハウェ よ、私をたすけに、急いで下さい」。同6節(2017訳の5節)「し かし私は、乏しく貧しい、神よ、私のところに急いで下さい。…」
ここには、内容の緊急性が強調されています。一刻の猶予もない、少なくとも地上のレベルではそう見えます。このような状況のもとにあるとき、私たちも思いっきり神に懇願の祈りをささげたい。
参考: 緊急のもとにある状況の例 イザヤ60:22「救いの到来」、 ヨハネ11:5~6「ラザロの死の時」
〇 詩篇40篇と読み合わせてわかることですが、ここには絶望的な状況のもとにある者に助けの手を差しのべているキリストが指し示されています。40篇の前半7,8節がヘブル10:5~7ではキリストについての預言として引用されていますが、ダビデは、「わたしはここに来ております」と言われるキリストを見ているのです。そのダビデには助けは必ず来るのです(参照 詩篇12:1,2、ヘブル4:16)。-山本怜-
一日一章 今日の聖書 詩篇第71篇
この詩で注目したいのは、神が高齢者を見放さない神として描かれていることです。年老いた者にとっての苦悩は、誰からも見放されることだからです。こうした私たちの生活の感情が、今から数千年も前にすでに記されているのです。
1∼3節は、31:1~3とほとんど同じで、巌であり砦である神(3)への信頼が祈りとなっています。神の恩恵は人生のどの段階においても満ち足りている。このことを、詩人は幼少のころにまでさかのぼり、神の恩恵なしにあり得た日はないと歌います(5、6)。詩人は、幼少の人生の早い段階で、未来に向けて祈りをもって、神に信頼を置くことを学びました。そして、信頼する神は確かに彼を恥に落とされることがなかったのです(参照:テモテ二3:15)。
神に信頼を置く信仰は、人生の様々な局面で立ち向かってくるもの
への防壁となり(3、4)、老齢に及んでは信仰者の唇は喜びの声をあげ、
彼が災いに遭うことを望む者ははずかしめを受けるのです(23,24)。
〔味わいのある言葉〕
〇7節「しかしあなたは」(口語訳参照)
岩波訳「証拠(神に捨てられたものであることを示すしるし)のように私はなりました、多くの者に。しかしあなたは、わが強固な逃れ場です。」
詩人が味わっている苦難を見て、そこから最悪の、そして自分たち
にとって最も満足のいく結論を引き出す人を前にしても、詩人は「しかしあなたは」と言って、注視する方向を災い(敵)から神へと向け直すのです。神が、この自分の身にかつて始められたみわざを最後まで見通すためにも、神にしっかりと目を向けているのです。-山本怜-
一日一章 今日の聖書 詩篇第72篇
この詩は第二巻の最後の詩です。詩人は、「彼の代に 正しい者が栄え 月がなくなるときまでも 豊かな平和がありますように。」とうたって完全な王を指し示しています。完全な王とはキリスト以外にはありませんから、この詩はメシア詩篇とも言われています。
この詩の初めの主要なテーマは、1,2,3の各節に繰り返して記され
ている「義」です。(参照:出エ23:3 訴訟において、弱い者を特に重んじてもいけない。23:6 …あなたの貧しい人たちへのさばきを曲げてはならない。)
聖書では、「義」は政治における第一の徳であり、この詩では12~14節につながっています。
すなわち、貧しい者をひいきにするのであっても、豊かな者をひい
きにするのであっても、裁判における不公平を禁じているのです。義は貫かれなければなりません。
義に伴い「平和」がきます(3)。義こそ平和が花開く土壌です(参照
イザヤ32:17:義が平和をつくり出し、…)。
8~11節では、「果てしない領土」と「終わりなき統治」がうたわれ
ています。「こうして、すべての王が彼にひれ伏し すべての国々が彼に仕えるでしょう」(11)。
このように「王による統治」が語られていますが、16,17節からは、
国々に及ぶ終わりなき祝福が私たちにも約束されていることを示され
ます。これに関連して、ヘブル12:28をあわせて読み、そこに記され
ているように感謝の念をもって主に仕えたいものです。
参照:ヘブル12:28「このように揺れ動かされない御国を受けるのですから、私たちは感謝しようではありませんか。感謝しつつ、敬虔と恐れをもって、神に喜ばれる礼拝をささげようではありませんか。-山本怜-