詩篇 一日一章 90~106篇

「主はいつくしみ深く
 その恵みはとこしえまで
 その真実は代々に至る。」
         (詩篇100:5)

・毎日、聖書を読む時に、お役立てください。

詩篇 90篇


一日一章  今日の聖書    詩篇第90篇

 表題に「モーセの祈り」とあります。死に近づいたモーセが、無限の災禍によって打ちひしがれている民を慰めるため、この祈りを口述したと思われています(カルヴァン)。
 神への深い信頼を告白して(1,2)、この詩は始まります。この神への信頼はこの詩全体に流れる基調音となって鳴り響きます。たとえ天地が滅び、あるいは自分の命が失われることがあっても、神の存在は変わりません。その神は、無限の存在者として、時間の中で生き、死んでいく人間に、時間に打ち勝つ生き方と意味を与えます。
 次いで3~6節を読み、「無常」ということに思いを馳せるのではないでしょうか。うたわれているのは、無常観ではなく、すべての事柄を神に照らしてみる現実主義です。人は神に目を向けるとき、本当の意味で人生の現実に対して目が開かれるのです。まず詩人は、罪と神の怒りに目が開かれます(7∼11)。 そして、「どうか教えてください。自分の日を数えることを。」とうたい、「知恵の心を得させてください」と祈るのです(12)。悲惨と罪の現実を見て、神を畏れる者に救いは近い。その人は神に人生の意味を尋ねるようになるからです。
 13~17節 神は「帰れ」(3節)と言われました。今度は人が神に「帰ってきてください」と憐れみを求めて祈るのです(13)。神への応答です。「私たちのすべての日」(14)は当然の報いとして「御怒り」(11)の中にありますが、契約(ルカ22:20)のうちにあって喜びにあふれることができるのです(14,15)。
 16~17節と3~12節に見られる対比は最高です。それは、消え失せる(7)ものと神がなす永続的な栄光との対比です。ここにあるのは、手のわざは確かにされること、そして喜びです。-山本怜-

 


 

 


詩篇 91篇


一日一章  今日の聖書   詩篇第91篇

 この詩は、危難のための詩篇といえます。悪の力にさらされ取り囲まれていたり、挑戦を受けていたりするときの信仰者がうたわれているのです。詩の人称が「私」から「あなた」へ、そして神を表す「わたし」へと変わっていくことが、詩の区分の目印になっているのに気づきます。その区分によって、私の避け所(1,2)、あなたの避け所(3~13)、「神の保証」(14~16)がうたわれていきます。
私の避け所(1,2) 詩人は先ず自分の信仰を、安全を表す四つのことば「いと高き方の隠れ場」「全能者の陰」「主」「神」によって明言します。
あなたの避け所(3~13 ここで詩人は私たち一人ひとり(「あなた」)に、自分の信仰として明言する真理について詳しく説明します。
 あなたに仕掛けられた「罠」「破滅をもたらす疫病」「夜襲の恐怖」「昼に飛び来る矢」「真昼に荒らす滅び」から守られていることが証されます。あなたの傍らに千人、右に万人が倒れても、信仰者であるあなた(私たち一人ひとり)は守られているのです。私たちに保証されているのは、神の許可がなければ何者も神のしもべに触れることができないということです。主は、御使いたちに命じて最も必要な時に私たちを守らせるのです。何と大きな恵みでしょう。(参考 マタイ4:11)
「神の保証」(14~16) 今度は神からの確認のお告げです。主からの信頼は、すでに全能者の陰に宿ることで示されていました(1,2,9)。神が私たちを信頼してくださるのは、私たちの何によるのでしょう。ここには三つの要素が示されています。「彼がわたし(神)を愛していること」(14)、「彼がわたし(神)の名を知っていること」(14)、「彼がわたし(神)を呼び求めていること」(15)です。大事なことです。-山本怜-

 


 

 


詩篇 92篇


一日一章  今日の聖書   詩篇第92篇

 表題に「安息日のための歌」とあります。なぜ安息日のための歌があるのでしょう。それは旧約聖書の安息日(新約時代の今は、主の日)
は単なる休みの日ではなく共同の礼拝(レビ23:3聖なる会合)の日であり、負担ではなく喜びとなる日であったからです。
 主に感謝しほめ歌を歌うことが、ここでは「正しいこと」を通り越して「良いこと」と呼ばれています。私たちは、神の御手のわざ(4)と
神の真実(2)を表現することに心と声をささげる(4b)につれて、神のみわざと真実によって喜ばせられるのです。これと反対のことが、次の区分の6,7節で現れます。
 1~4節で真の礼拝において上を見るとは、喜ばせ(4)られるだけでは
なく、思慮深くされ、神のみわざの規模(5)に畏敬の念を抱かされるこ
とでした。反対に、このことに全く気づかないとはまさに無思慮な者、
愚か者なのです(6)。
 主の日の朝、十字架と復活の主にお出会いした信仰者は、悪い者が
青草のように萌え出で、花を咲かせるように見えようとも(7)、復活の主が共にいてくださるがゆえに、一週の力強い一歩を踏み出すのです。そのとき、神の前に不法を行う者は、みな散らされます(9)。
 最後に、全体を通して考えてみましょう。
 この「安息日のための歌」で、1~3節では安息の生活は主に感謝し主を崇める生活だと歌っています。4,5節では、それは主に生かされる生活であるからと歌います。6~15節では、主の安息を知らない者が不法を行って滅ぼされることと、主に高められる者の勝利と繁栄がうたわれています。私たちには安息日は主の日です。この92篇を読み、主に生かされる安息の中に立って主を賛美しましょう。-山本怜-


 

 


詩篇 93篇


一日一章  今日の聖書   詩篇第93篇

 王としての神についての詩篇がこの93章から始まり100篇まで続
きます。93篇は「主こそ王です」で始まりますが、このことばのヘブル語は有無を言わせぬ力を持つことばです。それは、高官たちが自分たちの上着をエフーの足もとに敷き「エフーは王である」(列王二9:13)と言ったように、宣言の響きがあります。
 この「主こそ王である」のことばから、「イエス・キリストが王である」との告白について考えてみましょう。主イエスはがベツレヘムで生まれたとき、東方の博士たちがエルサレムに来て尋ねました。「ユダヤ人の王としてお生まれになった方はどこにおられますか」(マタイ2:2)。イエスが公生涯の最後にエルサレムに入られる時、人々が道に自分たちの上着を敷き、大勢の弟子たちは「祝福あれ、主の御名によって来られる方、王に。…」と神を賛美して、王として迎えたのです(ルカ19:35~38)。イエスが捕らえられてピラトの前に引き出された時には「あなたは王なのか」とピラトに尋ねられ、「わたしが王であることは、あなたのいうとおりです」と答え、十字架にかけられたときには罪状書きに「ユダヤ人の王、ナザレのイエス」と記されました。
 この十字架にかけられた「王」を、詩篇93の「主こそ王です。威光をまとっておられます。力を帯とされます。世界は堅く据えられ揺るぎません」で見上げるとき、この方イエスは、創造のみわざをされ、死に打ち勝ち、賛美を受ける方となるのです(ピリピ2:9~11)。
 3節には「川」が三度繰り返して用いられています。川は荒れ狂う
外国の軍隊の猛威を表現するのにも用いられました(イザヤ8:7,8)。現代で言えば、地上各地の戦乱や世界規模でのテロとの戦いを考えさせられて、3節のみことばが生々しく響きます。-山本怜-

 


 

 


詩篇 94篇


一日一章  今日の聖書    詩篇第94篇

 この詩は、「復讐の神よ」の呼びかけが繰り返されて始まります。復讐と聞いて、自分に敵対する者を「悪しき者」と決めつけて読みますと、自分も他者も破滅に陥っていきます。
 それで注目しておきたいことは、神を表すことばとして、主ヤハウェ(短縮形はヤハ)が神エロヒームよりも圧倒的に多く用いられていることです(参考 エロヒームは三回、ヤハウェは十一回/新改訳2017では、ヤハウェにあたる「主」はゴシック体で表記)。私たちは、詩篇全体の思想からも、主(ヤハウェ)の語義からも、旧約聖書の神は、単なる「復讐の神」でないことを知るのです。そして、この章で多く使われているヤハウェを意味する神は、憎しみの感情によって互いを傷つけあう、果てしのない争いへと導く神ではなく、罪によってすべてのものを破滅へと導く人類を引き戻すために、律法を与え、預言者たちを送り、恵みとまことのことばによって悔い改めるように招いておられる方なのです。このことを考えますと、詩人が「復讐の神 主よ」と呼びかけながら、12節で「なんと幸いなことでしょう。主よ」と呼びかけるまでに、主は彼をどのように取り扱われ、彼の心がどのように動いたかを考察することが、この詩を味わう鍵であることが分かります。
 8~11節のみことばは、悪い者が栄えるのを見ている詩人に、自らの心の中を見つめることの大切さを教えたことでしょう。詩人の目は、
悪い者が栄える現実から、その現実の世界を支配し、最終的には悪を滅ぼされるヤハウェに向けられているのです。
 悪しき者が勝ち誇っている現実(3~7)に、詩人自身も激しく悩みます(16以下)。その中で彼は聖書を開き、みことばに深く学び(12)、「砦」
「避け所の岩」である神にある平安に導かれるのです(22)。-山本怜-

 


 

 


詩篇 95篇


一日一章  今日の聖書    詩篇第95篇 

 この詩は、主の日礼拝の「招きのことば」で親しんでいるみことばです。イスラエルの民は神に導かれ、モーセによってエジプトの奴隷の地から解放され、シナイ山で律法を授けられました。しかし、その後、約束の地カナンに直接向かわず、シナイの荒野で四十年を過ごしました。そのようになったのは彼らが主を試みたからです(8,9 参照 出エジプト17:1~7)。この事件は、イスラエルの民がカナンの地に入ってからも警告として語り告げられてきました(詩81:7、106:32など)。
 この詩を詳しく説明しているヘブル3:7~4:13では、この詩の主眼はイスラエルに限りません。そこで語られている「今日」は、まさにこのときであり、「あなたがた」は私たちにほかならず、約束された安息とは、カナンの地ではなく救いのことです。この詩を通して、神にある生き方をしっかり身に付けたいものです。
1~5節  喜びをもって神を礼拝しましょう(1~5)。上の空の無感動 な状態でいつの間にか礼拝に出ていることはないでしょうか。
6~7b節  6節にあります三つの主要な動詞「来たれ」「ひれ伏し」「膝をかがめよう」は神の前で自らを低くすることと関係しています。 形式ではありません。心からの尊敬をもって主の前に出ましょう。
7c∼11節  「もし御声を聞くなら」とあります。「聞く」は、ヘブ ル語ではしばしば「従う」という面がついています(参考 サムエル 一15:22)。旧約聖書では「従う」を意味する単語が事実上ないから です。ですから、礼拝者は、どのように聞いているのか(従う)、誰 の声に耳を澄ましているのか、自らに問うのです。
 この詩から、神をほめたたえる中で主の声がしっかり位置付けられているか、その御声に従うか従わないのか吟味させられます。-山本怜-


 

 


詩篇 96篇 


一日一章  今日の聖書   詩篇第96篇

 この詩は歴代誌一16:23以下と大変よく似ています。歴代誌の記事は、ひとときペリシテに奪われていた神の箱が、キルヤテ・エアリムからエルサレムに迎え入れられた時(サムエル一6,7章)に、救いの神にささげた感謝のことばです。神の箱が、身を清めた祭司たちやレビ人によって琴や竪琴の音、喜びの歌とともにエルサレムへと上って行くのです。そのとき、野とそこにあるものはみな喜び踊るのです(12、歴代一16:32)。イスラエルの民の賛美だけではなく、もろもろの民の諸族も、栄光と力を主に帰せて賛美し(7)、天と地の被造物すべての賛美に詩人の目が注がれます。神のみわざの完成の時が見えたのでしょう。
 神のみわざが完成する時は、虚無に服していた被造物すべてが贖われるときです(ローマ8:19~22)。実に、この詩篇は、神の到来にすべての被造物が喜び、賛美をささげる歌なのです。このことは、イエス・キリストの十字架の死と復活によって実現し、イエス・キリストの再臨によって完成するのです。
 詩人の目には、エルサレムに上って来て目の前に見る神の箱を通して、天にあるいのちに目が注がれていたのでしょう。そして、カルヴァンは「この詩は、ユダヤ人だけではなく、すべての異邦人に向けられている神をほめたたえるようにという奨めである。それゆえ、詩は『キリストの王国』とかかわりがあると確信する」と語ります。
 「新しい歌を主に歌え」と詩人は呼びかけます(1)。新しい歌は新たに作られた詩、あるいは新鮮な思いで歌われる詩です。そうであれば、朝ごとに主を仰ぎ(詩篇5:3)、「キリストの王国」に連なる幸いを感謝し、神の恵みとあわれみに新たに触れて「新しい歌」を歌いましょう。必ず来られる(13)主を待ち望み、主の栄光を語り告げるのです。-山本怜-

 


 

 


詩篇 97篇 


一日一章  今日の聖書    詩篇第97篇

 「主は王である」で始まります(1)。「地は小躍りせよ」とありますように、主が来られるときの喜びは多くの島々にも及びます。その喜びは、御救いが知らされる解放の喜びです。
 しかし、この喜びのときは、神の義とさばきの前で、反抗者たちの運命が明らかにされるときです(2,3)。「雲と暗黒」(2)は、神が近づきがたいほど聖く、また隠れておられる方であることを人間に警告しています。一方、火と稲妻は(3,4)、滅ぼし尽くし、抵抗できない聖性を示し(ヘブル12:29「私たちの神は焼き尽くす火なのです。)、そこから逃れる道はありません。山々が溶けるとき(5)とは、人は地上での究極の逃れ場を失ってしまうことです(参照:創世記19:17「…山に逃げなさい。そうでないと滅ぼされてしまうから。」、マタ24:16
「ユダヤにいる人たちは山に逃げなさい。」)。
 「諸国の民はその栄光を見る」(6)、「偽りの神々を誇る者は恥を見る」(7)とあり、「シオンは聞いて喜び、ユダの娘たちも小躍りした。主よ、あなたのさばきのゆえに」(8)とありますように、王である主が来られるときは、キリストの来臨を予告するときと同じように、喜びと狼狽が交錯します。そのとき、地上のあらゆる種族は悲しむのです(参照 マタイ24:30、黙示録1:7)。けれどもキリストの民は喜びます。ここに強調されているのは、主の神性(6)と異教の国々の架空の神々(7)です。
 詩の終わりに、「主を愛する者たちよ、悪を憎め。*」という励ましのことばがきます(10)。*この訳は、明解な訳として知られています。主は、主にある者のたましいを守り、悪者の手から救い出してくださるのです。この主に私たちは信頼するのです。「光は、正しい者のために蒔かれている」とは、「光は現れ出る」のことです。この詩全体にあるのは、勝利はすでに成し遂げられた事実として見る精神です。
                          -山本怜-


 

 


詩篇 98篇 


一日一章  今日の聖書   詩篇第98篇

 「新しい歌を主に歌え」で始まるこの詩は、構成も思想内容も言葉遣いも96篇と大変よく似ています。しかし、96:4,5に見られた異教徒との比較はみられません。すべてが喜び、すべてに爽快さ。それが、再び主が来られる終末の神の義と救いを待ち望む希望に、私たちの心をも喜びに包みます。
 詩人は、驚くべき救いのみわざをなされた神の勝利を歌います(1~3)。救いは、主の果たされた救いです(1,2)。この方こそ、主の民が待ち望んでいたイエス・キリストです。ヘブル人の手紙は、それを鮮明に告げています。(参照 ヘブル20:14「…キリストは聖なるものとされる人々を、一つのささげ物によって永遠に完成されたからです。」)
 主がなされた救いのみわざに、人も全地も喜びの歌を歌います(4∼6)。この喜びの声は、「棕櫚の主の日」に多くの群衆の口から叫ばれました(マタイ21:5,9)。ゼカリヤの預言(ゼカリヤ9:9)が成就したのです。この叫びは、王を歓迎するときや、勝利のときに自然に起こって来る叫びです。この情景を現在私たちも知って、勝利の歌を歌います。私たちが知っているのは、神が到来する力に満ちた日が来ることです。その日を待ち望んで主の日ごとに礼拝をささげるのです。
 「海とそこに満ちているもの 世界とその中に住むもの」が喜び歌います(7~9)。今も神の栄光で満ちている全地あげての合唱です。このときまで、すべての被造物は虚無に服していました(ローマ8:20)。このとき、即ち神にかたどって造られた(創世記1:26,27)人が神の義と公正によって治められるまで(9)、自然は造られた本来の姿になれず、滅びの束縛のもとにあったのです(ローマ8:18~22)。私たちは、「主は来られる」(9)望みこそ喜びの源であると覚えて、この詩を歌います。                            -山本怜-


 

 


詩篇 99篇 


一日一章  今日の聖書   詩篇第99篇

 主の王権について歌う詩篇93~100篇の中で、この99篇は神がい
かに聖なる方であるかを歌い上げます。3,5,9節に三度繰り返される「主は聖なる方」を心に留めて、この詩を読みましょう。「聖」のヘブル語は「カドーシュ」、他と区別されていること、比べられないこと、分離され、超越していることを意味します。
 旧約聖書でこの語がもっとも多く使われているのはイザヤ書です。預言者イザヤは、ウジヤ王が高ぶりのために神に打たれて死んだ年に、高く上げられた御座に着いておられる主を見ました(イザヤ6:1)。そしてセラフィムが「聖なる、聖なる、聖なる万軍の主。その栄光は全地に満ちる」と賛美している声を聞いたのです。セラフィムが呼び交わすこの声が、99篇では三度繰り返す「主は聖なる方」に対応しているのです。それはまた、私たちが礼拝で祈り、賛美するそのときに、「聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな」と歌いあげてきた信仰の告白です。そして、この詩は国々の民に「恐れおののけ」(1)、大いなる 恐れ多い御名を「ほめたたえよ(3)」、主を「あがめよ」、「ひれ伏せ」(5)と呼びかけます。しかし、この呼びかけに、どれだけの信徒が、そして教会が真摯に応答しているでしょうか。主はご存知です。
 さらに「主は聖なる方」のメッセージからは、福音が語られてい
ることに気づきます。セラフィムの「聖なる、聖なる、聖なるかな」
の声を聞いたイザヤは、主の聖さの前に、「私は滅んでしまう。この私
は唇の汚れた者」(イザヤ6:5)と、神の前で罪人であることを深く自覚しました。しかし、主は赦しの神(8)、「主は聖なる方」です。その方が、汚れているこの私たちの神と呼ばれることを恥となさらないのです。心から「聖なるかな、…」と賛美し、主に礼拝をささげます。                           -山本怜-

 


 

 


詩篇 100篇 


一日一章  今日の聖書   詩篇第100篇

 表題には「感謝の賛歌」、(あるいは「感謝のいけにえの賛歌」)と記されています。感謝を主にささげるのです。詩篇ではここだけに出てくる表題です。詩篇は、神が全焼のささげ物を前にして、儀式的な動物のいけにえを必要としているのではなく、感謝をいけにえとしてささげることを求めておられる、と記します(50篇8~14)。礼拝で大切なことは、祭儀的行為よりも感謝なのです。参照 詩篇50:14「感謝のいけにえを神にささげよ。」新約聖書では、感謝の土台と焦点は、十字架に身をささげられたキリストにあります(参照 ガラテヤ3:20)。
 コリント一11:23b、24 「主イエスは渡される夜、パンを取り、感
   謝の祈りをささげた後それを裂き、こう言われました。『これ
   はあなたがたのための、わたしのからだです。わたしを覚えて、
   これを行いなさい。』」
 ヘブル13:15 「私たちはイエスを通して、賛美のいけにえ、御名を
   たたえる唇の果実を、絶えず神にささげようではありませんか。」
 3節は、この詩の中心となる思想をよく表しています。「知れ。主こ
そ神。主が私たちを造られた。私たちは主のもの 主の民 その牧場
の羊。」 「主こそ神」は、信仰者と、信仰者の群れ(キリストの教会)
の告白の土台です。
 この告白に立って初めて、主が私たちを造られ、私たちは主のもの
であり、主の民であり、その牧場の羊である現実が見えるのです。そのときに、「主に向かって喜びの声をあげよ」、「主に仕えよ」、「御前に来たれ」、「知れ」、「その大庭に入れ」、「御名をほめたたえよ」のいっさいは、命令ではなく、招きのことばであることに気づきます。そして聖霊に導かれ、主に感謝し、御名をほめたたえるのです。-山本怜-

 


 

 


詩篇 101篇 


一日一章  今日の聖書   詩篇第101篇

 表題は「ダビデによる。賛歌。」です。ダビデによるこの詩の特徴は、国を治める王が持つべき高い倫理性にあります。悪者とは行動をともにしないという思いが述べられていますが、それは独善的な誇りによるものではなく、清潔な行政への王の熱い思いから出ているのです。 
 高い倫理性については、2節「全き道に心を留め、…全き心で行き来する」、6節「全き道を歩む」、が中心にあり、その反対は3節「曲ったわざ」、4節「曲った心」で表されています。
 けれども、その思いとは裏腹に、ダビデは、サムエル記第二11章に語られている恐ろしい罪を犯して、この詩篇の内容とは反対の結果を招いたのです。このため、国には災いが及び、家庭の中には流血の惨事を招きました。しかしながら、ここに歌われている高い倫理性は、ダビデにも、ダビデの後継者たちにも努力目標であり続けたのです。
 この101篇の理解のためには、1節は主題、その適用が2節の初め、そして展開が2節後半以下に述べられているとして読むことは助けになります。
 「恵みとさばきを私は歌います」(1)とあります。これは、王にとって最も重要なことばです。「恵み」は王の注意を契約に向けさせ、「さばき」は民に対する統治者の重要な義務を示しているのです(参照 ペテロ一2:14)。
 「私は 全き道に心をとめます」(2)とあります。全き道は、神が期待される生き方です。それは神の働きかけから始まります。
 5~7節には、王が任命した者に何を求めているか、その地位を務める者として何をふさわしくないと思うかが示されています。終わりの8節では王が正義を施行することが示されているのです。-山本怜-


 

 


詩篇 102篇 


一日一章  今日の聖書   詩篇第102篇 

 表題に「苦しむ者の祈り。彼が気落ちして、自分の嘆きを主の前に注ぎ出したときのもの。」とあります。「主よ 私の祈りを聞いてください」(1)と主の前に祈る詩人は、「それはあなたが 憤りと激しい怒りのゆえに 私を持ち上げ 私を投げ捨てられたからです」(10)と訴えていますように、神にも見放され、滅び寸前とも思えるような苦しみの中にあるのです。11節までのひとことひとことに、深い嘆きが聞こえてきます。彼は生気なく希望もない状態にあるのです。
 けれども、そういう中にあって詩人は「しかし、主よ あなたはとこしえに御座に着いておられます」(12)となお主を仰ぎます。彼は、「あなたが、…私を投げ捨てられたから」(10)という思いで、苦々しく嘆きを訴え続けることもできたでしょう。だが、彼は「しかし主よ あなたは」と声をあげたのです。あなたが「良し」とされるなら、あなたによって立ちあがることができるとの確信に立ったのです。
 「しかし あなたは」のことばは、12節だけではなく、26,27節にも出ています。26節では、人の人生も周りにあるものもすべては滅びる中で、とこしえの方あなたは、それらをすっかり変えられる方であるといって、新たな命に目を上げます(参考 復活のいのち)。27節も同じように、すべてはすっかり変えられてもあなたは変わることがない方、といって永遠不変の神を仰ぐのです。この「しかし」といえることは、信仰に立って祈りに生きる私たちには大切なことだと、この詩は伝えます。どんなに苦しみの中にありましても、この詩人のように、「自分が何とかしようと思い続けることなく、神の力、神の恵みに目を注ぐのです。詩人は、「しかし主よ、あなたは…」といったその後に、それまでになかった明るさを見出しています。-山本怜-


 

 


詩篇 103篇 


一日一章  今日の聖書   詩篇第103篇

 表題は「ダビデによる」とあります。ダビデは、「わがたましいよ 主をほめたたえよ」(1)と主を賛美していますが、この賛美を読んで歌う私たちは、この詩がダビデの個人的な祈りと賛美というより、私たちの中から湧きあがっている思いを、ダビデが私たちすべてのものに代わって歌っているかのように、ダビデの賛美に引き込まれます。
 ダビデは、神がなしてくださったことにしっかりと心を向けて、「わがたましいよ 主をほめたたえよ。主が良くしてくださったことを何一つ忘れるな」(2)と歌います。そして、神が良くしてくださったこと、神のお計らいは何かを、ダビデは3節以下で具体的に挙げていきます。
(1) すべての咎を赦してくださったこと。 (2)すべての病を癒してくだ
さったこと。 (3)いのちを穴(墓穴を指し「死」の象徴)から贖ってくださったこと。 (4)恵みとあわれみの冠をかぶらせてくださったこと。
(5)生涯(ながらえる限り)、良いもので満ち足らせてくださること。(6)若さを鷲のように新しくしてくださること。
 このとき、ダビデは自分の身に起こった出来事(良きにつけ悪しきにつけ)の一切をはっきりと信仰の目によって見ていたに違いありません。
私たちも、すべて経験してきた事柄を信仰の目によって見、主の恵みとあわれみを受けていることを感謝して主をほめたたえるのです。
 この詩を読んで考えます。何故ダビデは「わがたましいよ」と、自分に向かって呼びかけたのだろう。神の恵みとあわれみを心にしっかり刻む思いからでしょう。そして、また考えます。私たちは、人への恨みつらみなどはいつまでもおぼえているのに、神の祝福はすぐ忘れ、恵みには慣れっこになるからではないか、と。そして、思います。主の恵みに慣れて感謝がないのは「信仰の危機」だと。-山本怜-

 


 

 


詩篇 104篇 


一日一章  今日の聖書   詩篇第104篇

 104篇で詩人が歌っている内容は何なのでしょう。「わがたましいよ 主をたたえよ」(1)と同じ言葉で始まる103篇では、歌われている内容は「人の咎を赦し、いのちを死から贖われる神の恵みとあわれみ」に対する神への感謝と称賛の祈りでした。104篇では、同じように「わがたましいよ 主をたたえよ」といって、天地において啓示されている神の尊厳と威光がほめたたえられているのです。その内容について、私たちは創世記1章の創造の記録を次のようにたどることができます。
 光の創造(2節と創世記1:3∼5第一日)、大空が水を分ける(2~4節と創世記1:6~8第二日)、地と海の区別(5~9節と創世記1:9~10第三日)、植物と果樹(14~17節と創世記11~13)、時を計る者としての光る者(19~23節と創世記1:14~19第四日)、海と空の生物(25,26節/海のみと創世記1:20~23第五日)、動物と人(20~23,27,28節と創世記1:24~28第六日)。
 なお、104篇全体の構造からは、次のようになっています。
 1節・主題、2~4節・天、5~9節・地、10~18節・地上のいのち、
19~23節・月と太陽、24~26節・海、27~30節・生命の維持者としての神、31~35節・頌栄。
 これらの構造を考えながら、私たちの実際の祈りを考えます。祈るとき、先ず心に浮かぶのは、「父なる神よ、この日も聖霊に導かれ、キリストのみ足のあとを歩ませてください」「誘惑から守ってください」などの自分の必要ではないでしょうか。次いで兄弟姉妹や平和のための祈りなど…。それで気づくのは、神の世界にまで目を上げて「主をほめたたえる」ことがなかなかできていないことです。神の被造世界に目を向け、この詩に倣って神を賛美する豊かさに導かれて、「主をほめたたえよ」の声に応答するのです。-山本怜-


 

 


詩篇 105篇 


一日一章  今日の聖書   詩篇第105篇

 詩篇第四巻は、105篇、106篇の神聖な歴史で纏められます。105篇を読むときには106篇を、106篇を読むときには105篇を念頭において読むと益になる、とよく言われます。105篇で扱われているのはアブラハムから出エジプトに至る歴史で、神の不変の契約のゆえに神の赦しのみわざに重点がおかれ、106篇は主に出エジプトの歴史で、イスラエルがいかに早く神の恵みを忘れるかに重点が置かれています。これらは、「神の恵みと力強いみわざ」「人間の心の頑なさ」についての私たちへの預言でもあるのです。
 105篇には、主がアブラハムと結んだ契約は、とこしえのものであり、決して反故にされることはない、という確信があります(8)。主の民が経験した奇しいみわざについて、「諸国の間に知らせよ」(1)、「思い起こせ」(5)、と呼びかけているのは、神がアブラハムになされた契約を神は決して忘れることがなく、覚えておられるからです。あくまでも神がアブラハムに対して為された契約が中心となって、神の奇しいみわざによる歴史が展開しているのです。この契約は、イサク、ヤコブ、つまりイスラエルの民へと引き継がれていくのです。神の救いのみわざの歴史は、わずかな人数から始まったのです(6~15)。
 その内容が、8~42節に記されています。16節以下の「主」を主語とする動詞に注目しましょう。「飢饉を…招き」(16)、「一人の人を送られた」(17)、「大いに増やし」(22)など、44節までに21の「主を主語とする動詞」が記されています。人にとって良いことも悪いことも主から来るのです(31,34)。神はみこころのままに人を選び、ご自分の働きのために遣わされます。この詩が強調するのは、約束は破らないという神の真実。私たちはその神の真実の前に歩んでいるのです。-山本怜-


 

 


詩篇 106篇 


一日一章  今日の聖書   詩篇第106篇

 この詩には、イスラエルの背信の数々に焦点があてられています。
神は、何度も繰り返して犯してきた神に対する罪(不信、不従順、忘恩、偶像礼拝など)の数々を、神がアブラハムと結んだ契約のゆえに、思い起こし(45)、彼らがあわれまれるようにしてくださいました(46)。
 「ハレルヤ。主に感謝せよ。主はまことにいつくしみ深い」(1)の頌栄に続いて記されているのは、深い悔い改めに導かれた人の信仰告白と切なる願いです(2~5)。そのように読む私たちに、6~43節に示されているイスラエルの背信の数々は、実は私たちや今日の教会への警告のメッセージとして語りかけてくるのです。しっかりと受けとめたいと思います。そのとき、4,5節の詩人の「私」の祈りは、この自分の「私」の祈りとなるのです。「主よ、あなたが御民を受け入れてくださるときに 私を心に留め あなたの御救いのときに 私を顧みてください。」(4)と祈るこの詩人のように、主の恵みがこんなに罪深い者にもなおも注がれているという驚くべき現実に目が開かれて、私たちも神の前に悔い改めて「私を顧みてください」と祈るのです。
 イスラエルの民の罪は、この後の歴史においても変わることなく繰り返されていきますが、御子イエス・キリストの十字架上における「父よ、彼らをお赦しください。彼らは、自分が何をしているのかが分かっていないのです」(ルカ23:34)の執り成しの祈りにおいて最高潮に達します。その執り成しの根幹にあるのが、アブラハムとの契約、永遠の恵みの契約なのです。神の民にとって大切なことは、2~5節に続いて記されている6節の告白、罪の自覚です。
 この詩もまた、コリント一10:11,12で示されていますように、世の終わりに臨んでいる私たちへの教訓なのです。-山本怜-