エフェソの信徒への手紙

2021年5月 9日 「エフェソの信徒への手紙5章21-33節」 偉大なる神秘とは

 聖書を批判することが楽しみで聖書を読まれる方もあります。そのようなある方が書かれていることですが、テモテの手紙一2:12に「婦人が教えたり、男の上に立ったりするのを、わたしは許しません」とのパウロの言葉や、エフェソ書の今日の個所を読んで、パウロは男尊女卑も甚だしいと怒っておられました。今日のところで言えば、「妻もすべての面で夫に仕えるべきです」が気に入らないのでしょうね。
いつも心掛けなければならないことですが、聖書を読むときにはその個所の中心になっている教えは何だろうかと考えることは大切です。それを見失いますと、パウロは男尊女卑だといったことにまで陥ってしまって、聖書の真理が分からないままになってしまいます。
 今日の個所で言えば、21節「キリストに対する畏れをもって、互いに仕え合いなさい」と32節「この神秘は偉大です、わたしは、キリストと教会について述べているのです」 の御言葉です。この二つの御言葉をまず念頭に置いておきましょう。
パウロは ここで大変具体的な訓戒をするわけですが、ギリシャ語の文の構成から見ますと、5:22節の「互いに仕え合いなさい」という呼びかけは、6章9節までかかっているのです。その9節まででパウロが取り上げていますのは、「妻と夫」「親と子」「奴隷と主人」という三組です。この三組は、古代のこの時代の社会では、決して対等的に相手を認めるような関係にはありませんでした。強い立場の者と弱い立場の者、支配される者と支配する者との関係、所有者と所有される者との関係が当時の社会秩序だったのです。
 こうした社会秩序のなかで、当時決して対等とは考えられなかった妻と夫、親と子、奴隷と主人との間のあるべき交わりを語る教会というのは、この時代には不思議に思える集団ではなかったかと思います。使徒言行録を読んでいきますと分かってきますが、教会には議員(Acts17:34 )もいれば奴隷もいる、生粋のユダヤ人もいれば異邦人もいる、民族が違う人々など、いろんな人たちが集っていました。そのさまざまに違う人々が、違いを超えて神にある一つの民とされ、互いに兄弟姉妹として受け入れ合っているのです。普通の社会に見られる、強い立場と弱い立場の者、支配される者と支配する者との関係とは全く違った社会が教会に見られたのです。
 今もそうですが、この世は、富や権力を持つ者といった強い者が支配者で、弱い者や貧しい者が支配されているのです。それに対して教会は、弱い者、小さい者を守り、耳を傾け、大切にしてきたのです。キリストの体でありますから、ある部分が他の部分の痛みを知らないとは言えません。パウロが言っていますように、わたしたちは「一つの部分が苦しめば、すべての部分がすべて苦しみ、一つの部分が尊ばれれば、すべての部分が共に喜ぶのです(1コリント12:26)」。
例えば最初の教会ではこんなことがありました。使徒言行録6:1-6ですが、エルサレム教会にはヘブライ語を話すユダヤ人もいれば、他の国々から来たギリシャ語を話すユダヤ人もいました。ギリシャ語を話す人たちは教会では少数派です。教会は貧しい人たちに食べ物や生活に必要な物品を分配していましたが、少数派のギリシャ語を話す人たちには行き届かなかったのです。その苦情を聞きました使徒たちは直ちに配給が行き届くように執事たちを選んで公平になるようにしました。
 小さな者、困難の中にある人に手を差し伸べる。これは、まさに5章1節で学びました「神に倣う者となりなさい」のとおり、神の姿に倣っていることなのです。キリストは、病に苦しむ人々の願いを聞き、目の見えない人の叫びにこたえられ、汚れた霊につかれた人を解き放たれました。教会はこのキリストに倣ってきたのです。ある日、エルサレムに向われるイエス様に、ゼベダイの子ヨハネとヤコブの母親が、「王座にお着きになる時、この二人の息子が、一人はあなたの右に、もう一人は左に座れとおっしゃってください」(マタイ20:21)と頼みました。王の権力の側に立たせてほしいというのです。それにイエス様は「あなたがたの中で偉くなりたいものは、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、皆の僕になりなさい」と言われました。
教会の中に支配する者と支配される者が出来てしまう。このことについて、パウロの時代、教会には、三つの危険がありました。それが、妻と夫との関係、子と親との関係、奴隷と奴隷の主人との関係です。そしてパウロは、教会の人たちにとって一番身近で、いちばん多い例として「妻と夫」の関係をまず初めに取り上げました。

今でこそ、妻と夫は隷属関係であってはならないパートナーとしての関係ですが、パウロの時代には、夫と妻の関係は妻の一方的な隷属でした。教会の中では(教会に行っている時は、という意味ではありません。キリストの体である教会に連なっている者の間では、ということですが)そうであってはなりません。隷属など、今どきはない。そう思いたいのですが、現実には、夫が妻を暴力的に支配する家庭内暴力ドメスティック・バイオレンスDVの問題があるのです。こうなりますと、「平和な生活を送るようにと、神はあなたがたを召されたのである(2コリント7:15)」と聖書が述べる結婚観は崩れてしまいます。 アルコールやギャンブル依存症、などもこの聖書の結婚観を崩すものとして、(参考:ウエストミンスター信仰告白24:3)離婚の理由付けになってくるのです。しかし、教会では、教会の中の人同士では本来そうであってはならないのです。
ところが、妻たちよ 自分の夫に仕えなさい、と書かれている今日の聖書の個所を読みますと、パウロは支配する、支配される夫婦のあり方を認めているかのように思われます。そして、実際、この聖書個所は、一方の側によって都合よく解釈されてきたのです。一方の側というのは、男性の方、夫の側です。それが22節です。「妻たちよ、主に仕えるように、自分の夫に仕えなさい。」
この言葉は、キリストに仕えるような徹底した従順さで、妻に夫への服従を求めているかのように見なされてきました。今はそのように考える人はいないと思いたいですが、最初に触れました聖書に批判的な人のような方もおられ、信徒の中にもみられるのです。この個所だけを切り取って読みますと、徹底した服従の要求だと伝わってしまいます。しかし、それは間違いです。この言葉には、二つの事実が関係しているのです。それを見落としては、意味がなくなります。
大前提になりますのは、21節です。「キリストに対する畏れをもって、互いに仕え合いなさい」 この御言葉のもとで妻たちよと呼びかけられていることを忘れてはならないのです。
二つ目の事実は、22節の「主に仕えるように」 です。
考えてみてください。わたしたちはなぜ主に仕えるのでしょうか。それは、主キリストが命をも惜しまずにわたしたちを愛して、わたしたちにご自身を捧げてまでして仕えてくだり、それによって今のわたしがあるからです。それで真心から主に仕えるのです。妻は主が命を懸けて愛してくださったことを知っているから、真心から主に仕えるのです。そうであれば、主に仕えるように仕える、の意味は、夫にも大きく関係してくるのが分かります。夫は妻に対して、主キリストが現してくださったような愛を持っているのか、妻に対して何をしたのか、夫自身も主に倣うように妻にしているのか、ということです。
 でも、なぜパウロは夫に対して、「自分の妻に仕えなさい」とは言ってはいないのでしょう。もしそう言ったとしましたら、この時代の人にとっては、とても異様な言葉に聞こえたことでしょう。それは古代の時だけではなく、現代のわたしたちにとっても、どこか変に感じるのではないでしょうか。それは男が女より優っているとか、と言うのではありません。神の定められた創造の秩序によれば、不思議なことではないからです。
 しかし、パウロは夫に対して、「自分の妻に仕えよ」とは言ってはいないにしても、実際には夫と妻が「互いに仕え合う(21節)」ように求めているのです。そのことの根拠として、また模範として、パウロは、キリストと教会の関係を取り上げます。頭であるキリストは、その体である教会を愛してご自分をお与えになられたのです。ですから、体である教会は、感謝をもって頭であるキリストに仕えるのです。この関係こそ、夫と妻の関係の模範であり基礎だというのです。この基礎が見えませんと、生まれも育ちも環境も全く違いのある異質な男女が、ふとしたことから崩れていくのは目に見えることではないでしょうか。

 26-27節は、いつも読んで感動します。キリストがどのようにわたしたちのことを思ってくださっているかに心打たれるからです。キリストは教会のためにご自分をお与えになった、のです。教会とはわたしたちのことです。わたしたちという体の部分々々がキリストの体である教会となっているのです。そのわたしたちを、ご自身の御言葉と聖霊によってこの汚れた者を、聖なる者としたばかりか、29栄光に輝く者にまでしてくださるのです。どれほどわたしたちが神の栄光をまとう身になるまでに、キリストは心砕いておられるのか、ただ感謝が溢れます。
そのように、あなたは妻を愛していますか、と28節からで、問うのです。わたしたちはここに、妻と夫は神の栄光を現す地上の目に見える大切なモデルなのだ、モデルであるべきなのだと、読みながら気づかされるのです。
つまり、ここでは妻と夫を取り上げて、「互いに仕え合う」ことが語られているのですが、「互いに仕え合う」ことは、妻と夫だけのことではありません。キリストと体の関係ということですから、頭も含めた体全体のあり方についても言えるのです。すべての体の部分はどの部分も、自分のためだけにあるのではありません。すべては一つの体を造り上げるためにあるのです。それは、どうして造り上げることができるのか。ただ一つの仕方しかありません。「互いに仕え合う」このことです。もし体のある部分が自分だけが殖えることを目的にしましたら、どうなると思われますか。それはがんと同じです。全身をダメにしてしまうのです。26節の言葉ですが、「キリストがそうなさった」ように、互いに仕え合う、これがわたしたちの姿、そしてこの関係が、教会に見られるとき、神の栄光に輝く教会がキリスト御自身の前に立つのです。
 互いに仕え合う、というのは相手の言いなりになることとは違います。自分に与えられている賜物、自分の存在そのものを、互いのために用い合わせて生きることです。「わたしたちはキリストの体の一部なのです」との言葉が、わたしたちに共通の思いである教会へと導かれてまいりたいと願います。

2021年5月 2日 「エフェソの信徒への手紙5章7-20節」 光の子として歩む

先週、1~6節で読みましたことは、キリストを信じているわたしたちは皆「聖なる者」なのだということでした。その確信に立って、「神に倣い」、「キリストの愛によって歩み」、「みだらなことやいろいろの汚れたこと、貪欲なこと、卑猥な言葉や愚かな話、下品な冗談、」を避けて、本当に聖なる者にふさわしく歩みなさい、ということでした。
 続いて今日のところで、パウロはもう一つはっきり知っておくべきことを教えます。8節です。あなたがたは「光となっている」ということです。光に照らされている、と言っているのではありません。光の中にいる、と言っているのでもありません。また、自分が光なのだ、というのではありません。主に結ばれて、と訳されていますが、主の中に入っていて光となっている、ということです。ですから自分の栄光や繁栄といった自分の光を放っているのではなく、「わたしは世の光である」(ヨハネ8:12) と言われた主キリストの光を輝かせているのです。このことは、わたしたちには、わたしたちの生き方と関係していることなのです。
イエス様は「わたしは世の光である」と言われた言葉に続いて、「わたしに従う者は暗闇の中を歩かず、命の光を持つ」と言われました。わたしたちは、暗闇の広がっている世界に生きているのです。その中で、命の光、つまりキリストの光をもっていて光となっている、ですから、暗闇が支配する中をあたかも光の中を歩むかのようにして、おずおずせずに歩むことができるのです。
旧約ではEx10 :21-29を読みました。出エジプトの時、神はモーセを通して10の災いをエジプトに下されますが、その第9の災いです。
22,23節「モーセが手を天に向かって差し伸べると、三日間エジプト全土に暗闇が臨んだ。人々は、三日間、互いに見ることも、自分のいる場所から立ち上がることも出来なかったが、イスラエルの住んでいる所にはどこにでも光があった。」エジプトを覆う暗闇。それはそのままエジプト・ファラオの姿を象徴しています。次から次へと襲いかかる災いにエジプトの民は苦難の極みにいたことでしょう。しかも、それらの災いを避ける方法がはっきりと示されているにもかかわらず、ファラオの強情さのために、エジプトは暗闇の中に捨て置かれていたのです。
 自分のいる場所から動けないほどの暗闇、皆さんも暗闇がどれほど大変なことなのか経験なさったことがあるかと思いますから想像できることでしょう。このところでは、その暗闇と光の対比が鮮やかです。どれほど周り一帯が暗闇でありましても、神からの光を受けて、イスラエルの人々には光があったのです。イエス様の言われた「わたしに従う者は暗闇の中を歩かず、命の光を持つ」と言われたこととは、この様なことです。
覚えておきたいことは、エジプトの暗闇は、今の時代のものでもあるということです。わたしたちは、その暗闇が広がっているどころか、広がっていく世界に生きているのです。核や軍事力を背景にしての国家間の関係は、一触即発ともいえるような緊張がはらんでいます。日本の政治の状況でも、意にそぐわない言論や批判を権力の力で封じ込めるような風潮が広がっていると多くの人は感じているのです。それに加えて、世界を覆っているコロナ・ウイルス。まさに、悪魔の勢力が勢いを得てわたしたちの周りは闇に包まれているのです。これを知ってわたしたちは本気になって悔改めなければなりません。そして、わたしたちは神に背を向ける罪を悔い改めるのです。
 こうして、暗闇は、3000年前のエジプトのイスラエルの民も、2000年前のエフェソの教会の人々をも囲みこみ、現在も聖なる者とされているわたしたちを取り込もうとしています。
 それでパウロは呼びかけます。7節「だから彼らの仲間に引き入れられないようにしなさい。あなたがたは以前には暗闇でした。」
わたしたちが以前暗闇だったからこそ、パウロは警告するのです。11節「実を結ばない暗闇の業に加わらないで、むしろ、それを明るみに出しなさい。」  暗闇の業に戻ることは簡単なことだからです。
 先ず、暗闇とは何でしょうか。もちろん暗い所ですが、聖書の言葉に聞きましょう。「暗闇の中を歩く者は、自分がどこへ行くのか分からない(ヨハネ12:35)。」 これは、イエス様が言われた言葉です。これが暗闇であります。自分が今どこにいるか。自分がどこに行くのか。自分の人生の方針も、いや、人生を超えた永遠の運命も分かっていない。これが暗闇です。聖書は「滅び」とも言います。

そうしますと、5:11の暗闇の業とは何でしょうか。それは自分がどこへ向かっているのか分かっていないでやっている行い、あるいは滅びに向っている行い、ということになります。
その暗闇の業をパウロは具体的に挙げてきました。もう一度、振り返って確かめておきましょう。
3節「みだらなこと、いろいろな汚れたこと、貪欲なこと」、4節「卑猥な言葉、愚かな話、下品な冗談」が示されています。このことでわたしたちが気を付けなければならないこと、おちいりやすいことを特別に5節で再び取り上げています。それは、みだらな者、汚れた者、貪欲な者ですが、それらは「偶像礼拝者」だというのです。汚れた者がおもに意味するのは性的不品行ということですし、貪欲な、というのは天にあるものを求めず地上のものを求めていることです。ですから、これらの者は、神にのみ捧げるはずの心の中心の座を、自分の欲望という神以外のものに明け渡していることなのです。人は自分の欲望には甘い。それで、パウロは、そういう人は「偶像礼拝者」だと厳しく言います。
先ほど言いましたように、暗闇とは滅びです。こうした不品行に今も引きずられているようでしたら、ローマ3:23でパウロが言いますように、「罪が支払う報酬は死」なのです、5:5「神の国を受け継ぐことはできません。」キリストの福音は、わたしたちを喜びで満たします。しかし、神を思うのではなく自分をいたわり、心の座を自分の思いで満たそうとしますと、滅びに向かってしまいます。
8節には、「以前には暗闇でした」と書いてあります。3,4節で具体的に示されているみだらなことなどは、以前には誰もが、口であれ、心であれ、行いにおいてであれ、行っていたのです。それらが、この世ではどれほど普通のことであったとしましても、神に喜ばれるような善い実を結ばないことは明らかです。
そのような暗闇の業、滅びから、わたしたちは救い出されて、神の御心にかなう業を行うものとされています。感謝しましょう。しかし気を付けなければならないこともあります。そして、ペトロが2Pet2:20^22でこの世の汚れに巻き込まれては、前の状態よりずっと悪くなると警告して、「豚は、体を洗って、また泥の中を転げまわる」といっていますが、そのような豚と同じにならないように気を付けましょう。また、Gen19:26に書いてありますように、今まで住んでいた町ソドムを振り向いて塩の柱となって滅んだロトの妻のようにならないように気を付けましょう。わたしたちが向かっているのは、振り返る暗闇のこの世、それはかつてのわたしたちの生活の世界、ではありません。光り輝く天の国なのです。

パウロはここで謎めいた詩を引用しました。14節です。「眠りについている者、起きよ。死者の中から立ち上がれ。そうすれば、キリストはあなたを照らされる。」 どうしてこの詩が謎めいているのかと言いますと、イザヤ書51,52章などで「起きよ」といった意味に類似した語はありますが、全体がこのように言いあわわされている言葉は旧約のどこにも出ていないのです。また、学者の調べるところでは、古代のユダヤ・キリスト教文書にも見当たらないと言います。しかし、パウロは何かを引用しているのです。それは何か。聖書学者たちによりますと、洗礼式の時に歌われた賛美歌に違いないということです。
キリストを通して神を信じることがどういうことなのか、洗礼を受ける前と後ではどう違うのか、それがこの詩の主題です。
「眠りについている者」とは、自分についても、世界についても、神についても何ら意識を持たずに生きている人です。神を信じるとは、そのような眠りから目覚めることです。(わたしたち自身もそうでしたが、)自分が何者なのかを自覚し、この世界が何であるかを意識し、神に心を向けるようになることです。それで、洗礼の時、受洗者はもちろんのこと、すべての信仰者が、讃美の声を通して、この呼びかけを聞いたのです。
「起きよ」 それは今までただ日を過ごしていた、つまり暗闇でまどろんでいた者が、光へと呼び出され、キリストの光を身にまとって生きるのです。
キリストの光は、自分が何者かを見せて悟らせます。すなわち、神の前で罪人に過ぎないのに、神の慈しみと恵みによって、今は神の子とされ本国が天にあるものとされている、今のわたしたち自身のことです。
キリストの光はまた、この世界を照らします。神の御心とは程遠い、無慈悲で、貪欲で、悪に満ちている、罪の中にある現実を照らすのです。その現実を16節では、「今は悪い時代なのです」と言います。その「悪い時代」の真っただ中にわたしたちは生きているのです。
だからこそ、パウロは呼びかけるのです。15節「賢い者として、細かく気を配って歩みなさい。」
漫然と生きていてはいけないと呼びかけているのです。周りの神なき世に合わせて生きるなら、わたしたちはもう一度暗闇の業を行うものに逆戻りしてしまいます。わたしたちは光の子、キリストの光を掲げているキリスト者です。
この気を配って歩む秘訣を、だからと言って17節は語ります。「だから、無分別なものとならず、主の御心が何であるかを悟りなさい。」これはとても、大切なことです。「無分別な者」とは、何が神の喜ばれることか、嫌われることかを考えない人のことです。そうした人は、自分の損得や世間の意見で物事を考えますから、また暗闇に戻ってしまいます。「神の御心が何であるかを悟る」ことは、普段の生活の中で神様の御心を尋ねなさい、ということです。わたしたちは、毎日、いろんなことを語り、行い、考えます。その時、イエス様の御心に沿っているかを心で確かめましょう。そうして思いや言葉や行いをイエス様の思いに基づいて判断できるものへと高められていきたいと思います。
 最後に、先ほど17節は気を配って歩む秘訣でしたが、今度はわたしたちの心に何があるべきかの秘訣について、パウロは18~20節で教えます。パウロが言っていることをあいまいにせず、はっきりと受け止めたいですから、原文に即して私訳してみます。
 「ぶどう酒によってはいけません。そこには放蕩があります。そうではなく御霊に満たされ続けなさい。詩編と賛美と霊の歌を互いに口にしなさい。心から主を賛美し歌い続けなさい。そして詩編を歌い続けなさい。いつでも、すべてのことについて、わたしたちの主キリストの名によって父なる神に繰り返し感謝しなさい。」
 
わたしたちは光の子。わたしたちはこの世に生きているのですが、この世に没頭するのではありません。神をほめたたえる喜びの歌を歌いながら、命の光であるキリストにあるわたしたちの存在が、暗きを照らし出して、この世を天の国へと旅していくのです。わたしたちはキリストの光を放つ「光の子」(ヨハネ12:36)なのです 。
 

2021年4月25日 「エフェソの信徒への手紙5章1-6節」 神がしてくださったように

先週は4:25からでした。そこには、古い人を脱ぎ捨てて、キリストを信じて心の底から新しくされたわたしたちが、またもや以前のような生き方をしていくようなことがないようにしなさい、と語られていました。
1週間が過ぎ、わたしは、自分が教えられた御言葉のように歩んだのかと考えてみました。残念ながら、なんと多く、パウロが指摘している憤りや怒りやわめきやといった感情の波が、押し寄せてきたことかと思い知らされます。そして、考えます。憤りや怒りやわめきなど、といったもの、それらを感情の波が押し寄せてきたときれいごとのように言いましたが、まぎれもなくわたしの心から出てくるものなのです。イエス様が「悪意、殺意、姦淫、みだらな行い、盗み、偽証。悪口などは、心から出てくる、…これこそ人を汚す」(マタイ15:18、19)と言われた通りです。なんと醜い心なのかと思います。その心を再び造り変えてください、と悔改めるのです。
パウロは、そうしたこと、憤りや怒りやわめきなどを一切捨てなさい、と言いました。なぜ厳しい言葉で言ったのでしょうか。それは、ただ道徳的にダメ、人を傷つけるからダメ、クリスチャンらしくないからダメ、といったことだけではありません。天の国に相応しくないことだからです。神の御心が分かっていないから、様々な悪意を自分の中にのさばらせることになっているのです。では、そのようなわたしたちに神様は何を求めておられるのでしょうか。一言で言えば、それは赦しです。赦しがしっかりと分かることです。
ある日、イエス様がカファルナウムの家に着いた時のことです。弟子たちがイエス様のところに来て、「いったい誰が、天の国で一番偉いのでしょうか」と尋ねました。これは、マタイ18章に書いてあることですが、イエス様は「心を入れ替えて子供のようにならなければ…決して天の国に入ることはできない」と言われました。そして、「心を入れ替える」ことについて、たとえ話を使いながら解き明かされたのです。
「心を入れ替える」ためにどうしたらよいのか、イエス様は、この18章全体を使って語っておられることに気づきます。その話のクライマックスは21節からの“「仲間を赦さない家来」のたとえ”です。天の国に入る話を聞いて、どんな人でも受け入れなければならないことを知ったペトロがイエス様に、「主よ、兄弟がわたしに対して罪を犯したなら、何回赦すべきでしょうか」 と尋ねました。そこでイエス様が語られたのが、1万タラントンを王様から借金していた家来のたとえです。これは、6千万デナリオンに相当し、今で言えば、年間の所定労働日数の目安が237日ということですから、およそ25万年間働いて手に入る賃金です。
王様は待ってほしいとしきりに懇願する家来を哀れに思い借金を帳消ししました。家来は嬉しかったでしょうね。家来にとっては、言い尽くせぬ憐れみを受けたわけです。ところが、この家来、町で仲間と出会いました。その仲間は、彼から100デナリオンを借りていました。仲間は「待ってくれ、返すから」というのですが、彼は聞き入れず牢に入れた、のです。前と同じように計算しますと、およそ5か月分賃金です。家来は25万年分の賃金を棒引きしていただいたのに、そのおよそ60万分の1を赦せなかったのです。それをも赦すのがたとえの示すところです。人には考えも及ばぬほど赦しの基準は深く、そして高いのです。
そのような赦しの心こそが天の国に相応しい、そのことをイエス様は語られました。しかし、そのような赦しはわたしたち人間にはできません。できるのは神様です。それをイエス・キリストは十字架の贖いによって現実に現されたのです。「全詩編中最も美しい賛美の詩」と言われています詩編103篇には、「主はあなたのすべての不義を赦し」(4節)とあり、「東が西から遠く離れているように主はわたしたちの咎を遠ざけてくださる」(12節)と記されています。一万タラントの赦しどころではない、神が命を差し出されてわたしたちを赦してくださった、東が西から遠いというのは無限です。無限の赦しです。これほどの赦しがどこにあるでしょう。そのキリストの赦しにわたしたちはあずかり、自由とされたのです。
キリストを信じている者は誰も、赦されているのです。わたしたちは、キリストの赦しを知っているのです。ですから、4章の32節で、先週の話の結びとしてパウロは言います。「神がキリストによってあなたがたを赦してくださったように、赦し合いなさい。」神がしてくださったように、あなたがたもそうしなさい。これが天の国の基準です。赦すことは、なかなか難しい。特に、されたことがひどければひどいほど。それでも、赦すことが求められます。怒り、敵意、憎しみは、わたしたちを救わないからです。それどころか、滅ぼすからです。
申命記10章12-22節は、旧約聖書におけるこの主題のハイライトです。神はこう命じます。「あなたたちは寄留者を愛しなさい。」(19節)なぜそうすべきなのか。その理由が語られます。「あなたたちもエジプトの地で寄留者であった。」
異国エジプトで寄留者としてヘブライ人は生きてきました。そのために、奴隷にされ、虐待され、苦しめられてきました。そのヘブライ人を神が憐み、愛されたのです。だから、あなたたちも同じように「寄留者を愛しなさい」というのです。
 パウロが言っているのはこれと同じです。あなたは、神によって赦されている、それも、赦された上に、さらに神の子とされている、そのあなたはどうしたらいいのか、ということです。あなたが赦されたように、人に対してもそうしなさい、ということです。キリストによって自分の身に起こったことが、わたしたちも人を赦すようにと心を動かすのです。それで、もし赦せないとしたら、あの100デナリオンの借金を赦せなかったイエス様の語られた家来とどこに変わるところがあるでしょう。
 「神がキリストによってあなたがたを赦してくださったように、赦し合いなさい。」という4章の結論を受けて5章は始まります。
 参考までにですが、ここでパウロが用いています 赦すという語は、日常許すという動詞とは違って、Χαρις(恵み、感謝)と同じ扱いの動詞です。ですから、ここで「赦す』というのは、ただ相手の罪をこちらは歯を食いしばってでも水に流してやるとか、ではありません。自分を傷つけ、罪を犯した相手、自分に怒りを抱かせた相手に対して、恵みを与えるようにしなさいと求めているのです。口先だけではない、心からの真実な赦しは、恵を伴っているのです。一万タラントンの借金を帳消しにしました王様は、憐れみをもって赦したのでした。そのように恵みをもって赦された者は、どのように歩んでいくのか。そのことを、パウロは5章の冒頭の1節で、日本語の訳には表れていませんが、ουν「だから、そこで」という言葉を使って、話を積み上げていきます。参考までに、ουνというギリシャ語は、4,5章ではよく使われていて、前に書いた内容を踏まえて、さらに話を発展させているのです。
 5章では、1節と7,15節の冒頭に使われていますから、パウロの話は、4章で語ったことが1-6の内容に発展し、1-6の内容が視点を変えて7-14節で語られるといったように進んでいるのです。
 さて、この1-6節でパウロが語っていることは、神の赦しを受けているわたしたちのポジティブな生き方です。それを、わかりやすく伝えているのが、ちょうど今日の真ん中にあります3節の言葉「聖なる者にふさわしく」です。この御言葉が言っていることを考えてみましょう。「聖なる者になるために」とは言っていません。また、「聖なる者になりたければ」とも言っていません。「聖なる者にふさわしく」 です。大切な真理が言い表されているのが分かります。
キリストにあるわたしたちは、皆すでに聖なるものだ、と言われているのです。エツ!こんなに罪深いものなのに「聖なるもの」なの、と思われるかもしれません。ですが、本当です。教会に行っているキリスト者は真面目で正しい人、とか立派な人格の人であるかのように考える人がいます。だから聖なる人というのだと、勘違いされるのですが、「聖なる者」とはそうではなく、「神のものとされた人」とか「神に属している人」といった意味なのです。
その基準は何か。キリストを信じて神のものとされていることです。互いの中の違いや、不一致がありましても、例外なくキリストにあって兄弟姉妹とされ、(フィリピ3:20)天に本国がある者たちなのです。その事実のゆえに、パウロは力強くわたしたちにも「聖なる者にふさわしく」と命じるのです。では聖なるものにふさわしく、どうせよと言っているのでしょうか。6節までのところでいくつか命じられていますが、今朝は三つのことを見ておきましょう。
一つ目は1節です。ここで言われているのは、「あなたがたは神に愛されている子どもなのですから、愛してくださる神に倣う者となりなさい」というのです。神に倣う、と聞きますと難しいように思いますが、愛してくださる父を良く知ってその愛を手本にしなさい、というのです。愛してくださる父のことをどれほど知っているでしょうか。それを知りましょう。それを知るのは、神の御言葉を離れてはできませんし、神を礼拝しなくては体験できないのです。このことを大切にしてより自分の父を知りましょう。
さて父のことが次第にわかり、神の愛が分かりましたら、二つ目はその実践です。それが、2節です。「キリストがわたしたちを愛してくださったように」 と具体的です。キリストはどのように愛してくださったのでしょう。「ご自分を香りのよい供え物、つまり、いけにえとしてわたしたちのために神に献げてくださったように」なのです。キリストの愛は、先ほどマタイ18章から学びましたように、罪を赦す、赦しの愛です。わたしたちのために、自らを和解の供え物とされた十字架の愛なのです。それは自分に役立つから相手に尽くそうとするのではなく、相手の方が助かるために、その方に尽くそうとする愛と言えます。「キリストがわたしたちを愛してくださったように 」です。
三つ目のことは、「倣いなさい」「愛によって歩みなさい」という初めの二つと違って、「してはなりません」という否定的な命令です。ここでパウロは、「神に倣い」、「キリストの愛によって歩む」者が、守らなければならない、最低限のわきまえるべきことを与えようとしたのでしょう。
わきまえるべきことは、聖なる者にふさわしくないことを口にしたり、あらわしたりしないことです。3節の「みだらなことやいろいろの汚れたこと、貪欲なこと…卑猥な言葉や愚かな話、下品な冗談」は、神の子どもとされているわたしたちには、父である神の不名誉ともなる言葉なのです。貪欲な者は、天にあるものを思わず、地上のものを求めそれで満たされようとするのですから、欲望という神以外のものに大切な心の中心の座を捧げていることになっているのと同じです。ですから、これは偶像礼拝だとパウロは語るのです(参照 Col3:5)。
 神の子供だから、そのわたしたちにふさわしい言葉は、心からあふれ出てくる感謝の言葉です。「それよりも感謝を表しなさい。」これがパウロの勧告です。
 わたしたちは自分たちのことをキリスト者とかクリスチャンだと言います。その意味は「キリストのものである」ということです。キリストに結ばれ、キリストのものとされ、それ故に神の子とされています。それで、わたしたちは「聖なる者」なのです。このことを確信し、感謝しましょう。そして、そのようにされている喜びと感謝をしっかり心に覚えて、聖なる者にふさわしい歩みを日々にしてまいりましょう。